三好家好きが語る『麒麟がくる』22話
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』。主演の長谷川博己さん始め、斎藤道三役の本木雅弘さん、足利義輝役の向井理さん、織田信長役の染谷将太さんなどなど、実力・個性・魅力の揃った出演者ばかりで、まわりでも大人気です。
が、それだけでなく、室町後期や戦国時代の畿内情勢が好きという所謂ガチな歴史好きな方々の間でも高評価。何故ならば、ドラマとして面白いだけではなく、最新の歴史研究で明らかになったことが、さり気なく各所に散りばめられているから、だと思います。
私自身は、ゲーム(信長の野望とか)好きに毛が生えた程度の歴史ファンで、室町後期や戦国時代の畿内情勢に興味を持って本などを読み始めたのも極々最近なのですが、そんな私から見ても「え?これ大河ドラマでやるんだ!」と思える点が沢山ありました。
特に先日、3か月ぶりに放送再開となった22話「京都からの使者」は、室町後期・戦国畿内・三好家好きな人々の心拍数が心配になる場面がいくつもありましたので、その辺りを備忘録的に纏めておこうと思います。
0.前準備?
前段階として、この時代を研究をされている先生と著書の一部を紹介しておきます。もちろん他にも多くの先生がいらっしゃって、多くのご研究をされていますが、あくまで私自身が著書を読んだ先生方、ということでご了承ください。(本のリンクはAmazonに飛びます)
天野忠幸先生
この時代の特に三好家の代表的な研究者として名前があがるのが、天野忠幸先生。天野先生は、主に、三好家が畿内で将軍を超えるほどの大きな力を持ち三好政権と呼べる状態であった、そして梟雄イメージの強い松永久秀が資料からは忠臣であった、という研究成果を纏められています。
[1]三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)
山田康弘先生
戦国時代の足利将軍を中心に研究されている山田康弘先生。山田先生は、足利将軍の権威は戦国時代になって衰えたと言えど、傀儡などではなく、官位の斡旋や戦の調停などではまだまだ権威として存在していた、という研究成果を纏められています。
[3]足利義輝・義昭:天下諸侍、御主に候 (ミネルヴァ日本評伝選 203)
今谷明先生
三好家だけでなく中世日本史研究の大御所の今谷明先生。三好長慶の父である三好元長と、足利義維、細川晴元らが、当時の足利義晴(義輝の父)政権とは別に堺幕府と呼べる政権を作っていた、という説をはじめ、当時は研究のあまりされていなかった分野で大元となる研究を纏められました。既に古くなっている説もありますが、今谷先生の文章はすごく惹き込まれるのです。
[4]戦国三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書) 新書
先生方の説が真正面からぶつかっている部分もありますが、それは三好家と足利家、という両側面からのそれぞれのご研究なので当然かな、という気もします。個人的には、どちらが正しいとかではなく、どちらも見る側によっては事実なのかなあ・・・と思いますが、それぞれのお立場に立っての主張は本職の研究者の方にお任せしたいと思います。
ということで、非常に前振りが長くなりましたが、上記の先生方の本を参考に、『麒麟がくる』22話、私的心拍数上昇ポイントを語っていきます。
1.三好家が京都を仕切っている(心拍数100)
いきなりそこから?という話題なんですが、そこからです。
織田信長登場前の戦国時代って、応仁の乱以降もうグチャグチャで京都は世紀末無法地帯さながら町には盗賊が溢れ将軍や公家なんて名ばかり、家の壁は崩れてボロボロなんでしょ?くらいのイメージの人もいると思うんです。私もちょっと前までそうでしたし。
でも、確かに政治的には色々入り乱れてますし、政権が変わる度に京都周辺で戦もあって町や村も被害にあってるんですが。
こう書くと、なんか割とグチャグチャであってるんじゃ・・・という気もしますが、それでも無法地帯というわけではなく、その時その時の実力者が争いを裁いて、それに従う、という秩序は存在していました。
22話は将軍義輝が三好と和睦し京都に戻って以来4~5年が経ったころのことですが、この10年くらいは三好長慶がその「時の実力者」でした。
『麒麟がくる』では「京都の実権を握っているのは三好長慶だ」と完全にやさぐれモードの義輝が言っていて、三好家は将軍を傀儡にしている、見方によっては悪役扱いですが・・・
が!
実権を握っている=三好家によって京都が仕切られ秩序を保って治められていたわけです。
天野先生はまさにこの説で「義輝と和睦した永禄年間であっても、三好長慶を頂点とする裁許体制は京都や山城を支配し続けたのである」([1]p.123)といわれています。
逆に山田先生は正反対で「義輝は三好から軍事・警察力の提供を受けた。また、三好に束縛されず、独自の判断で政務決済(裁判)を下すことも可能となった。よく「この時期の義輝は、三好の傀儡に過ぎなかった」などといわれるが、それは事実ではない」([3]p.112)といわれていまし、今谷明先生は「過去五年間の、天下人長慶の地位からすれば明らかに敗北である。(略)長慶が保持していた京都を含む山城一亥の支配を手放し、幕府に明け渡したことである。」([4]p.211)と書かれています。
上記のように、和睦後の義輝と長慶の関係は、研究者の先生方の間でも説が分かれているのですが、ともかくとして、『麒麟がくる』では天野先生説を採用し、京都はグチャグチャの無法地帯ではなく、ちゃんと三好長慶(とその前の細川晴元も)という実力者がいたんですよ!という描写があったこと、ここで既に心拍数UPです。
2.改元について(心拍数120)
この時代の改元はどのようなもので、どのように行われていたのかについて、天野先生は以下のように書かれています。
「室町時代の改元は、朝廷を代表する天皇と幕府を代表する将軍の合意によりおこなわれていた。」([1]p.91)
「改元は本来、天皇大権に属するが、鎌倉時代より武家が関与しており、室町・戦国時代には将軍への依存が進み、その主導性が高まっていた。」([2]p.84)
つまり、幕府(将軍)と天皇の間で改元についてのやり取りがあり、両方が合意した上で改元が為されます。本来は天皇の権利である改元を幕府にも了解を取ることで、天皇からは幕府(将軍)の正当性を認めていますよ、という権威付けになり、幕府は改元の費用を負担する、という両者にとってWin-Winの関係にあったわけです。
改元は主に以下のタイミングで行われていました。
①天皇や将軍の代替わり
②疫病、飢饉、大乱などが起こったとき
③辛酉年、甲子年にあたる年([2]p.184)
このうち、①と②については必ずということではなく、状況によっては出来ない・行わない場合もありました。ただし、③については、「辛酉年は延喜元年(901)、甲子年は康保元年(964)以来、必ず改元が行われてきた。」([2]p.184)とあるように、慣例として改元を行っていました。
ここでようやく『麒麟がくる』の話になりますが、22話の中では改元の話題が出ていましたが、3回の別の改元申請について触れていました。
1回目
近衛前久と足利義輝が対面するシーン。前久が「何故、義輝殿は改元の申請を成されぬ?」と言っています。続く前久のセリフから、この時の改元理由は③で、本来なら幕府から改元を申請するべきなのに将軍としての責務を果たさないつもりか?と問いただしています。
実際に義輝はこの時も、その前も改元の伺いをしていません。結果、「明治天皇により一世一元制が採用されるまで、甲子年に改元しなかったのは永禄7年のみであり、辛酉年に改元しなかったのも永禄4年と元和7年(1621)だけであった。」([2]p.184)ということになり、前久が「前代未聞のことじゃ」と憤慨していたのは、本当にその通りでした。
2回目
同じシーンで、義輝が「帝は私に何も知らせず、勝手に永禄に改元あそばされた」と怒っています。この6年前、元号が弘治から永禄に改元されました。本来なら上で見てきたように、幕府と朝廷が合意して改元がなされるのですが、「朽木の義輝には改元のことは全く知らされていなかった。そのため激怒し、改元を無視して弘治の年号を使用し続けた。」([1]p.91)というわけです。
3回目
後半の近衛前久と松永久秀のシーン。前久が「三好からの改元の申し出、見送ることになる。」と言っていますが、これは、上記の1回目改元を義輝が行わなかったことから、三好家が改元の伺いをした、ということでしょう。実際に松永久秀が申し入れをしています。「永禄7年(1564)3月16日、久秀が義兄で武家伝奏の広橋国光とともに、朝廷に改元を申し入れるが、却下されるという事件が起こった。」([2]p.183)
以上のように、改元についても『麒麟がくる』では、義輝の権威失墜と三好家の力の隆盛、そして朝廷との関係を表すのに最新研究の説を用いています。特にこの改元問題は、天野先生は「将軍の権威が失墜した状況に危機感を抱き、怒るとともに、四年半ぶりに京都奪還のための軍事行動を再開し」([2]p.85)と、また今谷先生も「この年二月の改元についても朝廷から諮問にも預かっておらず、このままでは将軍としての地位にも影響が出てくることを焦慮していた」([4]p.205)と、義輝の挙兵の理由として挙げられています。このあたりの細かい描写こそ無かったですが、そうそう!それは重大ポイントなんだよ!!と心拍数UPです。
3.義輝からの人質(心拍数140)
近衛前久と足利義輝のシーン。義輝が「その家臣に娘を人質に出す主君がどこにおりましょう」と言っています。これも天野先生の本に「永禄6年3月19日、山科言継は、久秀の許に人質として下向する将軍義輝の8歳の娘に謁見した。」([2]p.170)とあります。
何故、義輝が三好家に対して人質を出すような事態になったのか。
天野先生は「永禄5年の教興寺の戦いで、安見宗房や六角条禎の背後には将軍義輝がいることが明らかになった」([2]p.168)、「将軍義輝とその側近の上野信孝らと、三好氏と政所執事伊勢氏が対立する構図」([2]p.169)というように、義輝の行動に三好側が不信感を抱いた結果、義輝から人質を取るに至った、とされています。
また、山田先生は、「義輝がその影響力を使って他大名たちと、三好の頭越しに連携するようなことになると、三好にとって義輝は危険な存在になってくる。」([3]p.123)、「越後の上杉謙信が1500人の随員を従えて上洛し、義輝に面謁した。」([3]p.123)というように、義輝の影響力が大きくなってきた結果、義輝に対して警戒心を抱き、人質を取った、とされています。
ここでも両先生の説は正反対なのですが、将軍義輝が三好家に対し人質を差し出した、ということは事実です。
この先の永禄の変に繋がっていきそうな義輝と三好家の亀裂が、しっかり事実に基づいて描写されていること!心拍数UPしますよね。
4.大和での鳴り物禁止(心拍数160)
伊呂波大夫と近衛前久のシーン。前久が、「松永久秀が妻の死を追悼して大和での鳴り物禁止をしている」と言っています。
「深く悲しんだ久秀は翌月、奈良における芸能を停止している。」([2]p.187)とあるように、これまで梟雄というか、むしろ極悪人というイメージの強かった松永久秀は、実は妻を大切にしており、またさらに「母の病気を心配して自分の方が倒れたことや、手厚い供養を行っていたことから見て、久秀は相当母思いの息子であったようだ。」([2]p.183)と母も大切にする側面もありました。
『麒麟がくる』の中では、三好長慶暗殺計画の会での不敵な笑みや、22話の中でも妻を追悼して鳴り物まで禁止しているにも関わらず、即、伊呂波大夫を口説いていたりと、梟雄としてのイメージも若干残してはいますが・・・このどっちなんだろう?やっぱり梟雄なの?それとも実はものすごくいい人なの?ハイブリッドなの?という視聴者を惑わす人物の描写、すごく上手いなあ・・・と思います。それにまんまと嵌り、史実描写とともに心拍数UPポイントです。
久秀は、これからも活躍するはずなので、本当にどっちに転ぶのか、心配しつつ楽しみにしています。
5.将軍暗殺計画の首謀者(心拍数180)
4に関連していますが、この後起こる永禄の変の首謀者は、松永久秀というのが一般的でした。最近は、実は松永久秀は当時は大和にいて永禄の変には絡んでいない、ということも広まってきましたが、それでもやっぱり、まだまだ松永久秀は極悪人で永禄の変で義輝を殺害した、という小説やドラマも多いです。小説やドラマなので「松永久秀」というキャラクターをそういう位置付けにしたんだな、と物語を楽しむようにはしていますが・・・
が!
やっぱり「ちがうんだよ!松永久秀じゃないんだよ!」と叫びたくなってしまうのがファン心理というもの。
松永久秀悪人説については、天野先生が徹底的に反論されています。
「江戸時代中期に岡山藩の儒学者である湯浅常山が記した逸話集である「常山紀談」に「信長公松永弾正を恥しめ給ひし事」として、次のように記されている。」([1]p.155)として、有名な松永久秀の三悪(将軍殺害・主君殺害・大仏殿炎上)は、後の軍記物の記述であること。
「将軍義輝を殺害したのは、久秀ではなく息子の久通である」([1]p.157)
「三好義興の毒殺は後世の軍記物「足利季世紀」などに記されているのみで、久秀はむしろ義興の死を惜しみ悲嘆していること」(同上)
「大仏殿の焼失は東大寺が陣取免除の特権を盛り込んだ禁制を獲得せず、三好三人衆に陣地を提供し明確に久秀に敵対する行動をとったためであること」(同上)
4でも書いたように、『麒麟がくる』の中では、松永久秀は梟雄の雰囲気も残しつつ、実際には主君を裏切るような言動は(今のところ)見せていません。近衛前久と松永久秀のシーンで、前久が「将軍を亡き者にしようとする動きがある・・・お主の息子の久通が・・・」と、永禄の変に久通が関与していたことを仄めかしています。
実際に久秀がどの程度関与していたのか、本当に全く知らなかったのかは議論の分かれるところだと思いますが、少なくとも実働していたのは久秀ではなく息子の久通だった、という描写は、「ちがうんだよ!!」という心の叫びを落ち着けてくれると同時に、そうなんだよ!!という別の心の叫びで心拍数UPです。
6.三好長慶の死(心拍数200)
22回が終わるまであと2分!というところで、突然の飯盛山城と三好長慶の死。
今回はなんとか生き延びられそうだ、もしかしたらもう1回くらい画面に出るのでは、という期待を一気に打ち砕いてくれました。リアルでも叫ぶくらい心拍数UPというか心臓止まる勢いでしたが。
三好長慶の死を「病死」という描写だけに留めてくれたのは、これもまた、史実の散りばめです。
三好長慶の死に際については、「心身に異常をきたす」([4]p.248)とあるように、その前数年の弟二人の死、そして息子の死でガックリときてしまい、「長慶は義興の死によって悲嘆やる方なく、心身に異常をきたし、終日茫然たる日をすごすことが多くなった。」([4]p.250)という説もあります。さらに、この後、長慶は一人残った弟・安宅冬康を誅殺するのですが、「長慶が病のため冷静な判断力を欠いていることは確かであった。」([4]p.250)「冬康の誅殺から時がたつと、長慶もその非を悟り、また冬康の無実を告げる人もあって・・・」([4]p.252)と、後悔の中で病没する、という説が一般的に知られています。
確かに、次々と弟が亡くなり、更に息子まで病没すれば、何もやる気がおきない状態になるであろうことは想像出来ますし、更にもう一人の弟を自分で誅殺し、それが謝りであったとなれば、死ぬほどの後悔に苛まれることも想像に難くないです。
「しかし、病状が記された一次史料はなく、長慶の死因を鬱病とする見解もあるが、想像の域を出ない。」([2]p.193)とあるように、病状や死因については、鬱病だったかもしれないし、別の病気かもしれない、とにかく史料が無い、という状態です。
『麒麟がくる』の中でもこの通り、ただサラリと「病死」としたこと、ただ単に明智光秀が主人公のドラマでそこまで三好長慶を取り上げる必要性が無かっただけかもしれませんが・・・これは史実と判明していないことは描写しない、というやらないことによる史実の散りばめではないか、とも思っています。
ということで。
長々と書いてきましたが、『麒麟がくる』ドラマとしても、畿内戦国史・三好家ファンとしても、本当に楽しんでいます。
今回は三好家視点から色々と書きましたが、主人公の明智光秀も、織田信長も、その行動や為人については、歴史研究によってどんどん新しい説が出てきています。これから、光秀や信長はじめ、細川藤孝、足利義昭、朝倉義景などなど、どうやって描かれていくのか、楽しみで仕方がありません。