『中世に生きる女たち』感想

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読んだ本の感想は、Twitterでボチボチ呟いていたのですが、とても140文字では纏めきれないことが多いので、こちらに書いていこうかと思います。

 


 

歴史の本、最近ちょくちょく読むのですが、誰か一人に焦点を充てたものだったり、時代の流れだったり、大きな戦乱の周辺を描いたものだったり、がとても多いです。

そういう本も大好物なんですが。

じゃあその時代の一般の人はどうしてたの?とか、町並みはどうなってたの?というのも気になったりします。

で、図書館で手に取ったのが、以下の本。

 

『中世に生きる女たち』 脇田晴子 著 岩波新書

 

中世という厳しい世界の中で、女性は翻弄されていると思われがちだけど、力強く生き生きとしている女性もいたんですよ!という内容を勝手に想像していたのですが・・・

いやもう、想像以上に悲哀な話が多くて、心にダメージを受けました。(途中で読むのやめようかと思ったくらい。)

 

 

本の流れとしては、

序章 王朝文学の女性像
1.公家の女房
2.武士の妻たち
3.尼僧の生涯
4.女商人と庶民の生活
終章

となっています。

公家・武家・尼僧・庶民、と万遍ない階級の女性たちについて数人の事例を取り上げていますが、著者の脇田先生がメインのテーマとして据えているのは、「家」という単位の姿です。

つまり、古代には男性が女性の家へ通う妻問婚であったのが、中世に入ったころから徐々に嫁取婚へと変わっていき、それによって女性の立場も大きく変わった、と言われています。

 

ただ・・・1章でいきなり、公家の女房たちの話が始まるのですが。

この人たちは、最後まで「家」制度への移り変わりに取り残された人たちじゃないのかな、と思うんですよね。

そして、ここがもう・・・全体的に辛くてですね・・・

御所に上がる女性たちというのは、初めから妻として上がる以外は、財務だったり取次だったり食事や衣服のことだったり、それぞれの仕事があってお仕えしています。バリバリのキャリアウーマンで、男性の官僚に対してもそれなりに力を持っていたりするわけです。

鎌倉時代の末期に書かれたという『庭のをしへ』という女訓書が紹介されているのですが、その内容の一部は、

30歳を過ぎればものごとがわかるようになるが、20代ではなお思いが定まらない。

いかにやりたいことがあっても、人にきこえて誹られるようなことはやってはいけない。心のままに行動することは悪いことである。つらいことや嬉しいことが顔色にでてはいけない。わが心、身の上、人のことなどをしゃべってはいけない。といってあまりに上品ぶるのは憎らしいから、そのほどはわきまえて振る舞うようにしなさい。

公私につけて、急ぐことは早くしなさい。人に頼まれたり、口を入れたものは、最後まで、きちんとするように。これは宮廷での取り次ぎ役である女房にとって、もっとも重要な職務上の注意である。といって差し出るのもよくない。

というように、それはもう事細かに、女性だけでなく男性にも通じる、そして現代でも通じるような教訓が書かれています。

しかし。

ここまでの努力をして、彼女たちの多くが目指すところは、天皇の子供を産むこと、そしてその子が次代の天皇になること。

・・・・・・

どれだけ狭い門を目指さないといけないのか。

こんなの各時代に1人じゃないですか。

 

それなりの公家の家に生まれて御所に上がることになれば、否応なくここを目指すことを期待され、そして成し遂げられなければ尼になれ、と言われる。

辛くないですか?

私は辛いと思います。

 

2章の武士の妻たち、ここでは、北条政子、日野富子、ねね、という各時代を代表する3人の妻が紹介されています。

3人とも、母として子を思いながらも、公では武家の妻として「家」を守り力強く生きている、という描写で、1章の公家の女房よりは自立したイメージですが、周りからの期待に応え続けなければならない、という辛さは同じではないかと思えます。

特に、秀吉の妻ねねの話、プラスにもマイナスにも、一番心にきました。

ねねは、自分自身の子供はいないながらも秀吉子飼いの小姓たちを育て、明るくて良妻賢母なイメージですが・・・よくよく考えてみると、秀吉は女遊びしまくり、しかも淀殿には子供ができ、それでも正室として振る舞う・・・

哀しいけどカッコ良すぎるじゃないですか。

秀吉亡きあと、彼女はさっと、大阪城西ノ丸を徳川家康に渡して退城し、洛北三本木に隠棲している。

このあたりには、ねねの表に出なかった思いが行動として出ていますし、

大阪城の陥落、豊臣家の滅亡というものは、ねねにとっては淀殿の生んだ秀頼が滅亡したということであって、彼女には江戸時代のような「お家大切」の観念はなかったと思われる。もともと、豊臣家というものは摂関家のように、名門の「家」を世襲してきたものではなく、秀吉と彼女が武士団とともに築いてきた実体としての共同体である。

淀殿と秀頼の大阪城は滅亡していたのであるが、それは別の「難波の夢」であって、少なくともねねの心のなかでは、本来の秀吉・ねねの夫婦の思い出にもどっていた。

この描写はもう・・・悲哀すぎませんか・・・

しかし最後に、最近になってねねの実家である木下家から文書が発見されたこと、そして秀吉の有名な辞世の和歌や秀頼のことを諸大名に頼む起請文も木下家に保管されていたことを紹介し、

豊臣家の大事な文書を、嗣子としての秀頼にわたさず、彼女がしっかりとかかえこんでいて、彼女の死後、木下家の保管するものとなったらしい。その文書の写真を見ていると、”豊臣家最後の主はわたしなのですよ”とねねがいっているようで、なんとなくほほえましい。

と結ばれています。

ここで救われました・・・木下家への文書保管の経緯などは実際にはどうなのかわかりませんが、それでもこう解釈すると、ねねの真っ直ぐで明るいプライドが感じられるようです。この描写があって、本当に良かった・・・

 

3章、4章では、ぐっと身近な庶民の生活に焦点があたっていきます。

当時は夫と死別した女性は尼になるのが一般的で、ルイス・フロイスが「至る所に尼がいる」と驚いていたり。

伊勢の尼寺の尼僧たちが、129年途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮を実現したり。ちなみにこれは、1563年(永禄6年)のことで、時の京の実力者は三好長慶さんです。この前、129年式年遷宮が無かったということは、応仁の乱のころから止まっていた、ということですね。この後、秀吉や家康が援助していくので、やはり政情の不安定さの影響は大きいんだな、と思いました。

そして、庶民では女性の立場もそれなりに強く、座を取り仕切っている女性も多かったり、訴訟もガンガンしていたり。

それでも、幕府が「家」単位の戸主名で家業を登録する政策をとったため、女性の名前が表に出ることは少なくなっていったんですよ、という説を述べられています。

 

 

こうして印象に残った部分を書き出してみると、私が最初に知りたかったのは、後半の庶民の生活だったはずなのですが、前半の狭き門とねねの話の印象が強すぎて、肝心なところが全く印象に残っていません。

まあそれでも、女性も色々、もちろん男性も色々ですし、この時代の生活と価値観はこうだった!と絶対的な正解を求めるのは難しいのかな、という気もします。

今の時代でもそうですしね。

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