山科言継についてと『戦国時代の貴族』感想
畿内戦国史の本を読んでいると、本当にどの本を読んでも、「山科言継」や「言継卿記」の名前を目にします。
当時の公家は記録としての日記を書いている人が多く、山科家でも代々、日記を書き続けていました。言継の日記である「言継卿記」は特に長い間の部分が現存しており、大永7年(1527)から天正4年(1576)までの約50年間、足利義維・細川晴元・三好元長が堺に上洛してきた年から織田信長が安土城を築城する年まで、畿内の激動が記録されています。
同時代を生きた人がそのまま記録した資料であるため、畿内戦国史の研究で多く参照されるのは、当然といえば当然です。この人の日記が残っていることが、どれだけの情報を今の私たちに伝えてくれているのかと思うと、書き続けていてくれてありがとうございます!そして子孫の方も保管してくれていてありがとうございます!と感謝の言葉しか出てきません。
そんな山科言継なんですが。
諸々の本を読みながら、いつも感じていることがあります。
それは、この人いつも困ってるな、ということ。
もちろん、そうじゃない場合も多いです。というか、しっかりとした政治情勢の記録であったり、戦闘の結果の記録であったり、そうじゃない場合の方が多いです。
しかし、当時の畿内は公家や寺社の所領が武士によって横領され、公家にとっては受難の時代でした。山科家も例外ではなく、横領を止めて欲しいと時の権力者に願い出たり、逆に権力者からの無茶振りをされていたりしています。
それが一度気になり始めるとですね、もう次から次へと目について。
最終的に、言継さんかわいそう・・・という感想で終わったりするので厄介です。
どれくらい目につくか。最近読んだ本の中からいくつか挙げてみます。
『六角定頼』 村井祐樹
p.162 参照
山科家と三井寺(園城寺)が山科郷西庄につき領有争いをして、言継はこの裁判を当時の権力者、六角定頼のもとに持ち込みます。しかし、三井寺は今の滋賀県大津市、当時の六角領内にある大寺院。そのためか定頼は三井寺の勝訴とします。
言継は裁判のやり直しを求めるんですが・・・
裁判のやり直しを求める言継に対し「私が担当して、もう将軍の下知ももらって、落着した」とにべもない。末尾を「肝要に候」=「(この結果を納得することが)大事です」にせず、「肝要に候や」=「大事ですよね?」という言い方をしているところに一種の凄味を感じないだろうか。
と、子供を諭すかのように定頼に凄まれ、さらに大徳寺龍光院に泣きついたりもしましたが、
「事調わざるなり」という結果で終わった。
p.238 参照
上記と同じ天文14年、同じ案件で、定頼の息子である義賢にも働きかけています。以下、言継と義賢のやり取りです。
言継→義賢
初めてお便りします。「源氏色葉抄」は、きっとお持ちだと思いますが、今回お送りしたのは故逍遙院(三条西実隆)直筆の一品です。こういった物がお好きだと聞きましたので、お送り致します。もし何かあればお申し付けください。またお便りします。
我が家の知行を、一切軽料だと言って三井寺が横領してしまった案件は、定頼の判断で結審してしまったとのこと。これはあるいは、三宝院殿に問題があって、こうなったのでしょうか。もしそうであっても当家には何の関係もありません。公平無私に御成敗いただくように、将軍様にお願いしておりますので、この旨(お父上である)定頼様に取りなしていただけますよう、ひとえにお願い申し上げます。
義賢→言継
「源氏色葉抄」を送っていただき、たいへんうれしく思います。秘蔵します。ことに逍遙院直筆ということでたいへん珍しい物ですね。その他のことはこちらから申します。
ヒ・ド・イ!
義賢、源氏色葉抄を貰うだけ貰ってスルーですよ・・・!
著者の村井先生も、「 言継の低姿勢が痛々しい 」とまで書かれています・・・
『中世に生きる女たち』 脇田晴子
p.42 参照
山科家は、家職として管弦と服飾を担当する家だったようですが、それ以外にも朝廷での業務は諸々に及んでいたはずです。以下は、そんな業務の一環の中の話だと思います。
年末の清涼殿の水洗いを、言継が衛士に命じてその賃金の見積りを出させたところ、衛士は二人で「百疋」の見積書をもってきた。匂当内侍にいうと高いといって承知しない。言継がまた、衛士に交渉して、五十疋ならと承知させて匂当内侍にいうと、匂当内侍は三十疋だという。言継はあいだに立って困ってしまって、衛士に因果をふくめて、泣かせて承知させている。
と、中間管理職(?)としての苦労が偲ばれたり。
宸筆の「色紙百枚」の注文を取り次いだ公卿があった。匂当内侍の召集に応じて、言継は長橋局に行き、中書(草稿と清書のあいだの書写)を五十枚してきたという。色紙にそれはおかしいから、結局は代筆をしたということであろう。これはやはり宸筆になるのか。贋物ということになるのであろうか。
これは大丈夫なんでしょうか。贋作を作ったということでしょうか。え?マジデ?
『洛中洛外の群像 失われた中世京都へ』 瀬田勝哉
P.115-116 参照
上記の『六角定頼』の中で、天文14年に苦労していた山科七郷について再びです。山科家では、ここから左義長竹を献上していたようですが、この七郷に天文後半から弘治・永禄にかけて今度は武家が介入し、しかも介入する武家がコロコロと変わるために、対応に右往左往しています。
①天文17年7月、山科七郷は一円「公方御料所」となり、「寺社本所悉以御陥落」という事態に陥った。・・・ところが翌18年6月、摂津江口の戦の敗北で細川晴元が失脚、将軍も京都から没落する。そしてこの年10月「山科七郷所務之事 三好方松永甚助知之 自氏綱給之云々 公方御無足御無念之至也」(『厳助大僧正記』)ということになってしまった。将軍家直轄領であったのはたったの一年ほどで、すぐに松永甚助の知行へのかわったのである。・・・
②永禄元年11月、将軍義輝は三好長慶と和睦して入洛する。二ヶ月後の2年正月15日、突然山科家に「自武家三毬打竹 山科ヨリ到来とて 以広橋被下之」ということになった。・・・山科七郷が「武家御料所」にもどり、山科家の左義長十基献上も形だけは整った七年間である。
③永禄8年5月、将軍義輝が三好義継・松永久秀に殺される。山科言継はすぐに山科大在郷の自領返付を禁裏を通して松永に働きかけたが、松永はまもなく三好と分裂、交戦状態に陥った。以後山科七郷の領有はめまぐるしくかわる。
『松永久秀と下剋上』 天野忠幸
p.54 参照
今度は領地内での用水を巡ってです。
桂川の用水をめぐって、葉室、河島、桂上下、郡の四か郷と松尾社領の山田郷との間で争論が起こり、松尾社が時の権力者、三好長慶に訴えました。ただ、現地では山科言継がなんとか仲裁に当たって穏便に済ませようと苦労していたようなのですが・・・
現地では、山科言継や妻の実家葉室家、叔父の中御門宣忠とともに仲裁にあたり、争論は解決した・・・しかし、時すでに遅く、長慶は山田郷に用水を認める裁許を下し・・・そのため、言継らの仲裁案は破綻してしまった。
その苦労は水の泡となりました。
と、まあ、パラパラと見ただけでも、相当に苦労している様子が伺えます。
しかもこれ、本の中では権力者の力を示す論拠として取り上げられている事項なので、言継側の描写はすごく蛋白でサラッと書かれていたりします。(村井先生だけは、言継に対する哀れみのような描写が見え隠れしましたが・・・)
こんな山科言継さん。一体どんな人なんだろう。どんな(大変な)人生を送ったんだろう。と俄然興味が湧いてきまして。読んでみたのが次の本です。
『戦国時代の貴族 「言継卿記」が描く京都』 今谷明 講談社学術文庫
(リンクはAmazonに飛びます)
この本、言継卿記の記述を詳細に追っているんだろうな、と思っていたのですが、実際はちょっと違っていました。
副題には「言継卿記が描く京都」とあるんですが、メインは言継卿記として、それ以外の公家や僧侶の日記も多く参照して、当時の京都情勢を描写しています。この、京都の町や周辺の郷にいた側の視点からみた権力者の抗争という描写、とても面白いです。
例えば。
木沢長政との戦いの後、細川晴元軍は残党潜伏を口実に宇治周辺を荒らし、山科郷にも迫るのですが、山科郷ではこれを避けるために二万疋を支払って事なきを得ていたり。
二万疋=約3000万円。郷としてですが、とんでもない額を払っています。
権力者VS権力者でその背景や移り変わりを追っていくと、権力者の側にはそれなりの理由があって抗争しているんだな、と思うのですが、違う立場から見ると、ただただ迷惑でしかなかったのでは、という感想を持ったりもします。
ただ公家や町衆、郷の住民は、弱くて泣き暮らしているのかと言えば、そうではなく。
堺公方軍(三好元長)が義晴・高国と対峙しながら京都をほぼ支配していた頃、残党狩りとして公家や庶民の家に乱入するのですが、これを公家や町衆が一体となって追い払っていたり。
町や郷、特に京都の町組という自治組織が出来上がっていく過程とその内容が詳しく説明されていて、権力者とその支配下の人々、ではなく、わずかな期間でも権力者にも対抗していく人々の強さが見れます。
また公家については、貧窮するあまり地方へ一家で下向したり、下手すると餓死してしまったりする公家もいたのですが・・・
山科家の場合は、粟津供御人という近江から京都への物流にいち早く目をつけた人々をを支配し、そこからの収入によって、なんとか生き残ることができています。荘園制がほぼ崩壊していたこの時代、生き残っていた公家は、山科家のように何かそれ以外の収入源があったのかも、です。
そして、山科言継自身について。
公家として苦労はしているのですが・・・
京都周辺の戦闘を度々見物に行ったりしていますが、これは別に言継だけではないですし、だからこそ詳細な記録が今に残っているのですが、なんかこう他人事のような・・・ちょっと、呑気だな、と感じてしまったり。
尾張や伊勢、駿河に、公務と私用の両方で下向しているんですが、尾張では、同行した公家と一緒に蹴鞠や和歌を教えて受講料で荒稼ぎしていたり。
この旅費も自腹をきって借金していたりして、やっぱり困ってはいるんですが。
それでも、山菜取りに出かけたり、花見に出かけたり。突然、出奔してみたり。
困っているだけの人ではなくて、しっかりとこの時代を生き抜いた人だな、という印象に変わってきました。
そして、激動だったであろう人生の中で、50年間、日記を書き続けたことに、やはり畏敬の念が湧いてきます。
言継という名前、まさに名は体を表すとはこのことで、山科言継の言葉は500年後も継がれています。
もし出来れば、いつか「言継卿記」の全文を読んでみたいなとも思います。