『足利義晴と畿内動乱』感想
歴史って知れば知るほど面白いなあと思うようになったのは、これまで一面からしか見ていなかった歴史には、必ず別の面からの見方がある、と気付いたことが大きな要因だと思います。
例えば。
「織田信長が足利義昭を伴って上洛して、ゴタゴタしていた畿内を平定した。」
というこれまでの見方に対して、
「ゴタゴタの畿内には、三好長慶という権力者がいて畿内を治めていた。」
という別の面もあって、さらに、
「三好長慶が権力持つ一方で、足利将軍家・細川家という権力も存在していた。」
という面もある。
この別の面を知ることの面白さに気付いてからは、畿内戦国史をさかのぼるように何冊か本を読んだのですが。
足利義昭・織田信長の視点→三好長慶・松永久秀の視点→足利義輝の視点→六角定頼の視点→「 」→足利義稙の視点
と、「 」のところだけが抜けていました。個人的には、ここは「細川高国・足利義晴の視点」じゃないかな、と思っていましたが、そこを埋めるような本が!出版されました。
(リンクはAmazonに飛びます)
ということで、とてもとても楽しみにしていた本です。
内容は本当に期待通りで、足利義晴の視点から畿内動乱を追っています。
これまで、「足利義輝と義昭のお父さん」「近江によく逃げていた人」「六角定頼をすごく頼りにした人」「でも有能だったという話も聞く」という、なんだか断片的には知ってるけど実はどういう人なの?というボンヤリしていた足利義晴像が、すごく鮮明になりました。
そして、義晴と同時に、足利義維・細川高国にも結構スポットが当たっていたのは、個人的にとても嬉しい。
文章もとても読みやすいです。
論文だと、読む人の想像や疑問がなるべく出ないように、むしろ想像や疑問に対して論拠を出して埋めていくような形が多いですが、この本は一般書で、また著者の木下先生も冒頭に書かれている通り、義晴がどう考えて行動したのかが木下先生の説で書かれており、読む側にも想像して楽しむ余地を残してくれています。
そして、足利義晴は何をした人だったのか、義晴側から見るとそうだったのか、という新しい知見も沢山ありました。
普段は感想を書くときになるべく自分の想像は入れないようにしているのですが、今回は想像を楽しむ余地を残してくれた(と勝手に感じている)本に甘えまして、少し想像も入れた感想と、個人的な「そうだったのか!」という点をいくつかあげておきたいと思います。
桂川合戦後の和睦交渉について
大永7年(1527)、桂川合戦で柳本賢治らの丹波衆と三好元長らの阿波衆に破れた細川高国は、将軍義晴を伴って近江に逃れます(p.69)。高国は、義稙の時にも同じように三好之長に敗れた後、近江に逃げようとして、義稙にフラレてますから、さぞかし嫌な記憶が蘇ったのではないでしょうか。(その後、高国がフリ返してますが。)
その後、義晴と高国は、六角定頼・朝倉宗滴の支援を受けて再び上洛し、足利義維を担ぐ細川晴元・三好元長らと和睦交渉を開始します(p.84)。この時、細川晴元側でメインの和睦担当だったのが三好元長。
交渉は一度は両者の合意が得られたかに思われましたが、結局、晴元側の柳本賢治らが反対して、交渉決裂となりました。
この第一回目の晴元川と高国側の和睦条件案、木下先生は、
・一度は合意しかけた以上、義晴の開陣と晴元の上洛は入っていたはず
・しかし結局、晴元は上洛しなかったため、晴元側が呑めない条件が含まれていたのでは
・晴元が呑めない案とは、高国に後継者がいない時期だったため、晴元が高国の養子となる案だったのでは
との推論を出されています。
そしてさらに、義晴側が同意した以上、将軍を義維に譲るということはなく、つまりこの時点での元長が主導した和睦案は、義晴を主とするものだった、との論を述べられています(p.85)。
これ、結構驚きでした。義維さんの立場は?という純粋な驚きもあるんですが、翌年、柳本賢治らが主導した再びの和睦交渉で、今度は晴元・賢治らが義晴を主とした和睦条件案で進めようとするのを、元長は「将軍は義維!」として反対しているからです。
しかし当初の段階では、
第一次三好元長案 | 第二次柳本賢治案 | |
将軍 | 足利義晴 | 足利義晴 |
京兆家 | 細川晴元(高国養子?) | 細川晴元 |
という、和睦内容としては一緒だった!ということです。
結局、三好元長と柳本賢治がお互いに主導権を取り合って、それぞれが進めようとする和睦に反対していたのであって、元長は単に賢治が推す義晴への対抗として義維を推した、という説(p.107)は、ものすごく納得するとともに、いやでも義維さんの立場は?という純粋な驚きが再び湧き上がってきました。
しかし、後に元長が自害する時、義維は「自分も元長と一緒に自害する」とまで言っていますし、誰からも軽い扱いを受けた義維にとって、成り行きとはいえ(?)自分を押してくれた元長は、頼りになる存在になっていたんでしょうね。
なんかもう、義晴本なのに、いきなり義維さんに持っていかれました。義維本は出ませんか?
内談衆について
足利義晴の政治体制として内談衆というものがあった、ということは知っていました。しかし、その成立の理由、構成、役割については、ほとんど知識が無かったのですが、そのあたりも詳しく解説されています。
内談衆には父である義澄時代から続く系統の、義晴と個人的に信頼関係のある側近が選ばれました(p.168)。
側近というのはいつの時代も必ずいたものですが、
・集団として組織して権限を与え
・定期的に評定を開催する制度を取り決め(p.171)
・そして丸投げではなく、最終的な決定権は義晴がしっかりと持つ体制を整えたこと(同上)
これらが義晴が有能だったと言われるところかな、と思います。
義晴の政治体制は、この内談衆+六角定頼の「意見」で構成されていました(p.172)。
思えば・・・
先代の義稙は、補佐する大名間のバランスに四苦八苦していた印象がありますし、次代の義輝は側近の意見に振り回されていた印象もあります。(個人の印象です)
内談衆と六角定頼、案件ごとに諮問する先を振り分けるバランスの良さも、義晴の有能さかもしれません。
六角定頼と細川晴元との関係について
上でも少し書いたように、義晴の政治体制の中で、六角定頼は「特別」でした。
義晴は、幕府運営上の重要事項や他大名への対応について、定頼に「意見」を求め、基本的には定頼の「意見」が通っていました(p.180)。ただ、定頼にすべてを任せていたわけではなく、「意見」を求めるかどうかは義晴が判断していたのであり、義晴の自律性は保たれていました(p.181)。
定頼の方でも、義晴の意向に沿った「意見」を述べて、幕府運営における大名参加を演出していたのでは、とも書かれていますが、それは・・・どうなんでしょうね。定頼さんに聞かないと・・・
しかし、とにかく。
将軍に何かあれば定頼は兵を出して支え、義晴の方でも定頼を尊重しすぎるくらい尊重していた、「特別」な関係だったわけです。
ここでちょっと気になってくるのが、細川晴元の存在感の薄さです。
将軍を軍事的に支え、政治についても意見を述べて支えるのが、本来の(?)細川京兆家の役割なのでは?
それは今、六角定頼がやっているのでは?
本の中では、義晴が晴元に求めたのは、
・幕政を助けることではなく、領内をしっかり治めること(p.185)
・京兆家当主として幕府儀礼へ参加すること(p.187)
・有事の際の幕府軍としての軍事力(同上)
とされていますが、「晴元自身が有事の原因となることもあり」役割を果たし得ないことも多かった、と書かれています・・・デスヨネ!
細川晴元も、木沢長政・三好長慶という内紛の種を抱えながらも、京兆家当主として一定の権勢をしばらくは保っていたわけです。
なのに将軍義晴から見た時の扱いの軽さと言ったら・・・
結局、この定頼>晴元という信頼関係が、後に三好長慶・細川氏綱が登場した時に、義晴の対応が二転三転した原因ではないかとも思うのです。
しかし結局、(かなり)時々危ないこともありつつ、義晴と晴元は最後まで同じ陣営にいたわけで。
晴元はどう考えて行動していたのかも気になってきました。
・・・晴元さんの本は出ませんか?
ということで。
まだまだ他にも色々と新しいことが知れたのですが、全部書くと、本を全部参照する勢いになりそうなので、このあたりとしておきます。
木下先生は「両方に組みせず、調停者たらんとした」と書かれていましたが、全体として、その根底には「将軍が京都にいること」こそが京都を静謐に保つことである、という意識を、足利義晴も周辺も持ち続けていたんだろうな、という印象を受けました。
そう考えると、後年の近江での生活と帰京を望みながらの死去は、さぞかし無念だったでしょうね・・・
義晴側の視点がわかる、本当に素晴らしい本だと思います。
それと。
本の出版と同時に、著者の木下先生が講演をされたのですが、そちらも動画で拝見しました。
本の内容+αを簡潔にお話してくださっていて、内容が更につかみやすくなりました。
こちらもオススメです。
本を参考に足利義晴のライフチャート作成してみました。
こう見ると、細川家に巻き込まれまくっているような。なんとか中立を保とうとした義晴の苦労が偲ばれます。