洛中洛外図屏風について

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洛中洛外図屏風に興味を持ったのは、以前にも少し書きましたが、足利義晴が細川高国の辞世の句を受けて描かせた説を知ったことがきっかけでした。

それから、「洛中洛外図強化月間」と(勝手に)定めて、研究の古い方から何冊か本を読んでみたのですが・・・

これがもう、最高に面白いんです。

 

洛中洛外図については芸術品としての関心に始まり、誰が描いたのか、いつ描かれたのか、何が描かれているのか、何のために描かれたのかなどなど・・・美術史学・建築学・歴史学・文学など各方面の専門家が、それぞれの立場から千差万別の論を述べられています。

その論説が、定説とされるところにいきなり爆弾のように新説が投下されたり、その新説に各地から反論が出て、その反論に対する反論が出て・・・ついに新しい発見で説が確定した・・・かと思いきや、また新たな視点が!!

というような具合でして。

もう洛中洛外図自体もさることながら、研究の流れが一つの歴史として面白い域に達しているように思います。

 

ということで。

今回は、何冊かの読んだ本を紹介しながら感想を書きつつ、洛中洛外図研究の流れをまとめてみようかと思います。

 


0.そもそも洛中洛外図屏風って?

洛中洛外図屏風と言えば、織田信長が上杉謙信に贈ったとされる豪華絢爛な屏風、これが一番有名だと思います。教科書などに出ているのは大抵コレかと。

しかし。

実は洛中洛外図屏風と言われるものは、現在確認されているだけで168本もあります。[7]

そのうち、最初期の4本が、室町後期から戦国期の京都を描いており、多くの研究者の先生方の研究対象となっています。それ以後に制作されたものは、江戸時代に入ってから描かれたもので、その時代の町の様子というよりは過去の大きな出来事(天皇の行幸など)や華やかな町の様子を描き、そして徐々に名所中心の絵となっていきます。[6]

では、多くの論説が出されている最初期の4本とは?

年代順に並べますと、以下のとおり・・・

 

なんですが、その前に。

(0)朝倉本

4本、4本と連呼しておきながら、いきなりの0番スタートで大変申し訳ありません!

でも4本の前に、幻の洛中洛外図屏風があったのです。

何故、幻なのかと言えば、公家の日記の中にしか存在しないから、です。

甘露寺中納言(元長)来たる、越前朝倉(貞景)屏風を新調す、一双に京中を画く、土佐刑部大輔(光信)新図、尤も珍重の物なり、一見興有り、

『実隆公記』永正3年(1506)12月22日条 (本文は[6]より)

永正3年の時点で三条西実隆が、土佐光信が越前の朝倉貞景のために描いた屏風を見た、と日記に書いているわけで、それ以前に発注制作されていた、ということです。

「博識で知られる実隆が面白がるのは、おそらくそれまでにない斬新な絵だったからだろう、というのが大方の見方で、これがすなわち最初の洛中洛外図屏風だったと考えられている。」[6]というように、現存しないながらも、一双に京中を描いた、との描写があるわけで、洛中洛外図が描かれていたのだろう、とされています。

永正3年というと細川政元暗殺の直前です。一体どんな京都が描かれていたのか、気になります。現存していないのが残念すぎます。

 

(1)歴博甲本

現存する最古の洛中洛外図屏風です。

もともと三条家にあったため三条家旧蔵本、また町田本とも言われます。現在は、国立歴史博物館所蔵。

詳細は、歴博Webギャラリーで見ることが出来ます。この歴博Webギャラリー、拡大表示もできるし解説動画もあるしで、本当に素晴らしいです。歴博の研究者の方々には感謝しかありません。正しいインターネットの使い方ですよね。

いつ制作されたのか、何が描かれているのかなどについては、詳しくは後述しますが、1525年~1536年の間、つまり将軍は足利義晴であり、細川高国と細川晴元が争っていた時代の京都が描かれている、というのが一般的です。

 

(2)東博模本

「模本」とあるように、原本ではなく写しです。原本は発見されていません。東京国立博物館所蔵。

洛中洛外図屏風は、屏風なので左右それぞれ6扇が基本形なのですが、この東博模本は右隻の第5扇が欠けています。

描かれている景観は天文12年~13年(1543~44)ごろという見方が一般的で、将軍は足利義晴、細川晴元と細川氏綱が争っていた時代です。ここは一部の三好家好きの皆様にはポイントなので、繰り返します。細川氏綱の時代です。詳しくは後述します。

模写ですが、ADEACのWebページで東京大学史料編纂所が復元模写した画像の高精細度版を見ることが出来ます。

 

(3)上杉本

前述したように一番有名な洛中洛外図屏風です。米沢市上杉博物館所蔵。

諸説あるものの、一般的には、「狩野永徳が描き」「織田信長が」「上杉謙信に贈った」屏風ですからね。全員、教科書に載るレベルのスーパースターの名前が3つも付いている屏風ですからね。そりゃ有名になりますよ!

そして、後述の洛中洛外図屏風に関する研究の流れも、ほぼ、この上杉本がメインとなってきます。

描かれている景観は、現在一応の定説となっているところで永禄4年~5年(1561~62)ごろで、将軍は足利義輝、三好長慶と和睦後、京都に戻っていた時代です。

Web上で全体公開はされていないようですが、米沢市上杉博物館が出版している『国宝「上杉本洛中洛外図屏風」』が、お手頃な価格ながら全体図、細部の拡大写真と見れて、説明もあり、とても良いです。

 

(4)歴博乙本

平山堂本、高橋本とも呼ばれます。国立歴史博物館所蔵。

1985年に古美術商の高橋氏所蔵として紹介されたため、古い本や論文では載っておらず、初期は3本の屏風、と書かれていたりして、単体での研究はあまり見られません。

紹介された当時は「上杉本」より古い可能性も想定されたが、現在では、風俗画などの細部の検討から、実は室町時代ではなく、おそらく織豊期、1580年代ころまで下がると考えられるようになった。[6]

歴博甲本と同じく、歴博Webギャラリーで詳細を見ることが出来ます。

 


1.洛中洛外図研究史

前置きが大変長くなりましたが・・・

ここからおおまかな研究史の紹介に入ります。

 

洛中洛外図研究の流れは、何冊かの書籍で纏められていますが、中でも黒田日出男先生は『謎解き 洛中洛外図』[5]の中で、以下のように4つの年代に分けて研究史を整理されています。

第I期 1911年~1945年

 1911年に洛中洛外図屏風上杉本が紹介されて以来、戦前まで。主に、建築史家と美術史家によって武家住宅や寺社建築を検討していつ頃の京都かを探る景観年代論が主流。結果、上杉本の景観年代は天文17年~永禄7年までに絞り込まれた。

第II期 1946年~1982年

 戦後、主に美術史からの研究が盛んになり、数ある洛中洛外図のうち、初期の4本を第一定形、それ以後を第一定形の変形とするかもしくは第二定形とする、という分類がなされた。また、上杉本については、狩野永徳作であるという共通認識が出来上がった。

第III期 1983年~1993年

 カラーでの図版が一般研究者にも出回りはじめ、美術史家・建築史家以外の歴史研究者が、研究できるようになった。結果、瀬田勝哉先生今谷明先生、そして黒田日出男先生など、多くの研究者が様々な着眼点から研究を行うようになった。

第IV期 1994年~現在(出版年の1996年)

 現在(1996年)に至る・・・

 

しかし、この本が出版されてから早20年以上。そして、私自身は全ての本を網羅したわけでは当然ありませんので・・・もう少し簡略化して紹介したいと思います。

読んだ本の限りでの私見ですが、研究史をとてもとても大きく分けると、

    1. 今谷説が出るまで
    2. 瀬田説が出るまで
    3. それ以後

という区分になるのではないかと思います。

何故ならば、これは前述の黒田先生も本[5]の中で言われていることですが、洛中洛外図研究での大きな論点が、今谷説・瀬田説で変化したように思えるからです。

 

主な論点となっているのは、

    1. いつの景観を描いたものなのか(景観年代)?
    2. 誰が描いたものなのか(製作者)?
    3. いつ描かれたものなのか(制作年代)?
    4. 誰が描かせたものなのか(発注者)?
    5. 何のために描かれたのか(主題)?

の5つのポイントです。

 

前述のように、洛中洛外図研究の初期は上杉本の景観年代の大まかな特定がなされ、製作者が狩野永徳であるという共通認識が出来上がっていました。つまり、主としてA.景観年代とB.製作者についての研究だったわけです。

そこへ・・・

今谷先生の論文をまとめた『京都・1547年』が発表されます。今谷先生の説は、それまでのA.景観年代とB.製作者を全否定し、その過程でCの制作年代を論点に上げました。

そして、今谷説への反論の一つとして出されたのが、瀬田先生の論文「公方の構想」です。論文の中で、瀬田先生は今谷先生の説に反論した上で、Dの発注者とEの主題に着目するという、別視点からの論点を大きく取り上げました。

つまり、

1. 今谷先生によってそれまでの景観年代、製作者の定説が一度全否定され、その後、今谷説に対する賛成・反対で大きく揺れた。

2. 今谷説への反論が出される中、瀬田先生によっても今谷説が否定され、更に発注者と主題という論点が加えられた。

3. 以後、前述の5つのポイントを論点に研究が進んだ。

という流れです。

 

以下、年代順に読んだ本を紹介していきます。


2. 洛中洛外図屏風研究の関連書籍

 

2.1 今谷説が出るまで

[1]「洛中洛外屏風の建築的研究」堀口捨己(『書院造りと数寄屋造りの研究』鹿島出版会 1978)

著者の堀口先生は建築史家の先生です。

大変古い本で、本の本来の目的はタイトルの通り、書院造りと数寄屋造りの建築史の研究、です。

洛中洛外図屏風の研究については、これを京都の写実であることを示し、その上で当時の建築史料として用いることが可能である、ということを示されています。

建築史家の先生なのですが、公方邸、細川邸、北野神社、風呂屋などについて歴史学の年代から場所を検討され、洛中洛外図に描かれたと思われる時代と矛盾がない、とされています。

そして、大きな研究成果であると思われるのが、それぞれの洛中洛外図に描かれた年代について、です。

これまでは、東博模本→上杉本=三条本(歴博甲本)という年代とされていました。しかし、公方邸や周辺建物の位置関係から、三条本(歴博甲本)→東博模本→上杉本、という年代であることを示されました。

具体的な年代は、以下のとおりです。

・三条本(歴博甲本) 大永5年から天文8年の間

・東博模本 天文12年から天文17年の間

・上杉本 天文17年から永禄7年

 

この研究成果や研究方法は、以後に出てくる研究の基礎となったのではないかと思います。特に後に出てくる今谷先生は、この研究をそのまま全部の建物に当てはめたようなご研究をされています。

 

[2]「都市図の機能と風景」黒田紘一郎 (『絵図にみる荘園の世界』小山靖憲他編 東京大学出版会 1987) 

上杉本を都市図として見た時、何が描かれているのか、絵師の目的は何か、を探った論文です。

上杉本自体を「やまと絵」として、文字注記をやまと絵の「謎解き」のキーワードではないか、と推察しているのですが、実際の論文の内容は謎解きの論文ではなく、描かれている建物や街路や道、川を特定し、左右両隻のトレースを行った上で、トプグラフィカル・マップとして主要地点を地図の上に落とし込まれています。また、左隻と右隻の分かれ目を示されてもいます。

この図を作られたことが一番の論文成果だとは思うのですが、論文の中では、畠山ずしの遊女たちや医者についても言及されており、風俗文化も読み取られています。

 

2.2 今谷説

[3]『京都・1547年―描かれた中世都市』 今谷明 イメージ・リーディング叢書 1988

  (新書版『京都・一五七四年ー上杉本洛中洛外図の謎を解く』今谷明 平凡社 2003

さて・・・今谷先生の説がついに登場します。

私が購入した本は、2003年に再出版された平凡社ライブラリー版ですが、もともとは1988年に『京都・1547年ー描かれた中世都市』というタイトルでイメージ・リーディング叢書より出版されています。

今谷先生は、中世日本史を主に研究される歴史学者で、今更言うまでもないくらいの大先生です。

前述のように、今谷先生は、これまでの上杉本についての説、つまり景観年代は天文17年~永禄7年であり製作者は狩野永徳である、という説に対し、ご専門の文献史料研究の視点から反論をされます。

 

今谷先生の説は、以下のように展開します。(ただし、本の中では結論が先にきているため、論説の順序は異なります。)

景観年代について

① 上杉本洛中洛外図に描かれた武家屋敷、寺社建築、公家邸の検討を行い、景観年代の確定を試みる。

② 結果として、上杉本洛中洛外図に描かれた建築物は、全て天文16年(1547)7月から閏7月の2ヶ月間に存在している。

③ したがって、上杉本は追憶や空想に基づいた「あるべき姿」ではなく、徹底した写実によって描かれたものである。

制作年代について

④ 天文16年時点での絵をもとに後に模写したか、後世に追憶して描いた可能性もあるが、絵の迫真性や臨場感から、当時の見たままを描いた可能性が高い。

⑤ 織田信長が天正元年~2年(1573~74)ごろに上杉謙信に「政治的な意味を込めて」贈ったとするならば、自分の天下を示すために26年前の京都をわざわざ描かせて贈るとは考えられない。

⑥ よって、制作年代は天文16年前後である。

製作者について

⑦ 天文16年(1547)に描かれたものであるならば、当時、狩野永徳は4歳であり製作者ではない。

⑧ 狩野永徳作を伝える文書は江戸時代や近代に書かれたものであり、史料価値・信憑性が低い。

⑨ 屏風の下段に押された永徳の壺印(サインのようなもの)は、不明瞭で判読できない。

⑩ 画風・筆跡も他の永徳作とされるものと異なる。(ただしこの点は今谷先生ご自身が美術史が専門でないことは強調されている)

⑪ 天文16年頃は狩野元信が活躍する時期であり、狩野元信周辺が製作者である可能性がある。

 

天文16年(1547)に京都を描いた写実であり、狩野永徳が描いたものではない、というこの説、それまでの定説を否定するものであり、当時、研究者以外でも大反響となったようです。『アエラ』などの雑誌でも取り上げられた、と新書版の後書きに書かれています。

また、狩野永徳作を否定したことが、特に美術史の研究者を刺激し非難を受けることとなった、とも書かれている通り、その後、この説は各所から反論を受けて、否定されていくことになります。

 

実際、超ド素人の私が読んでも、ん?と思うような部分もあります。(尤もこれは後に否定されたという結果を知っているからというのも大きいとは思いますが・・・)

例えば、①の検討の大前提として「同一年代の景観である」という仮説を元に結論付けているような邸宅や寺社がいくつかあるように思えます。

また、これは他の先生の説でも感じたのですが、ある仮説があったとして、その仮説に基づいて事実を検証した結果矛盾が出なかった場合、その仮説が間違っている可能性は排除されますが、他の仮説が正しい可能性を排除することにはならないのでは?と思うわけです。つまり、天文16年に描かれたとして矛盾は出ないけど(後に出ますが)、後に想像して描いたり、異なる年代を混ぜて描いたとしても矛盾は出ませんよね?と思えるわけです。

 

とは言っても、今谷先生のご研究は、本当に素晴らしいです。

特に、本でも多くのページを割いている景観年代を確定するための武家屋敷・公家屋敷・寺社の検討は、前述の堀口先生ら建築史家の先生方が行った研究の流れを受け継いで、更に掘り下げたものだと思います。また以後の先生方も、今谷先生の説に反論はされていますが、研究自体はとても評価されています。

今は否定された今谷説ですが、今谷説があったからこそ、こんなに上杉本の研究が進んだのでは、とも思えるのです。なんか・・・今谷先生の研究は、そういう傾向が多い気もします。京兆専制論とか堺幕府論とか。新説を出して研究者の先生方に衝撃を与える、というのは、今谷先生がそれだけ素晴らしい研究者で、ここで言うのも怒られそうなくらいの大先生なのだからだと思います。

 

2.3 瀬田説

[4]「公方の構想」瀬田勝哉 (『洛中洛外の群像ー失われた中世京都へ』平凡社 1994

前述の今谷先生の説を受けて、各方面から反論がなされるわけですが、そのうちの一つが、この瀬田先生の論文です。

瀬田先生の本については、論説もさることながら、本として夢中になり、以前にも感想を書いたので全体としてはそちらを参照いただければと思います。

ここでは、今谷説に対する反論の部分だけ、再度まとめてみます。

 

瀬田先生も中世日本史の研究者で、ご専門の視点から景観年代について、以下のとおり今谷説に反論をされています。

・今谷先生の説は、写実であるとするが故に、一点の例外でもあれば即、説が崩壊してしまう。

・「三好筑前」邸に描かれている「冠木門」は永禄4年に造られたことや、天文18年以前に京都での活動が見られない「松永弾正」邸が描かれていることなど疑問点も多い。

・法華寺院は天文法華の乱で京都を追放されてから徐々に許されているが、妙顕寺については、当時発給された文書から、妙顕寺という名を使うことをしばらく許されず、どんなに早くても天文20年までは「法華寺」と号している。しかし、今谷先生が天文16年の景観とする上杉本には「妙顕寺(めうけんし)」と書かれている。

 

「一点の例外でもあれば即、説が崩壊する」というのは、今谷先生ご自身が書かれていることですので、これはもう少なくとも「完全な写実である」という説は成り立たないことになります。

しかし、全部の建物を検討された今谷先生も今谷先生ですし、そこから矛盾点を明確に見つけ出した瀬田先生も瀬田先生で・・・ただただ研究姿勢に頭が下がるばかりです。

 

さて。

瀬田先生の説はここで終わりではなく、むしろここからが本番かもしれません。

写実でないとするならば、では何が描かれているのか

瀬田先生は、天文18年という年に注目されています。この年「摂津江口の戦い」で三好長慶が細川晴元を破ります。結果、それ以前の足利義晴・義輝ー細川晴元体制に変わり、三好・松永が大きく勢力を伸ばしてきたわけです。

しかし、上杉本には将軍邸・細川邸が主体として描かれ、さらに三好・松永邸も描かれています。つまり、既に崩壊してしまったものや失われたものと、新しいものが両方描かれています。

そして、こうした政治秩序を考え得る人は「足利義輝」である、とされています。

実際、足利義輝は帰京して以来、三好長慶と(表面上は)協力しつつ、細川晴元と三好長慶の和睦を調定したりと、大枠としての足利将軍ー細川家という過去の体制を踏まえた上で、新興勢力である三好家もその体制に組み込もうとしているように思えます。

つまり、上杉本は足利義輝の政治構想を描いた絵である、と結論付けられています。

そして、こうした政治構想が描かれたものである以上、上杉本の製作は、足利義輝と三好長慶の和睦から三好義興の急死までの間になされたものだろう、との説を述べられています。

 

ただ、足利義輝の政治構想を描いた絵であるとした場合、実は大きな疑問が残ります。

それは、足利義輝の公方邸が無いこと、描かれた公方邸は父の義晴の代の今出川御所であること、です。

当時、足利義輝は武衛邸(旧斯波邸)の場所に将軍御所を築いていました。その、本来、御所であるべきところは上杉本では武衛邸のままになっており、門前で闘鶏が開催されています。そして、その闘鶏を1人の子供が眺めています。

これが、元服前の足利義輝ではないか、というのが瀬田先生の説です。

何故なら、上杉本の大枠である足利義晴・細川晴元体制の当時、義輝本人は元服前の子供であり、その子供だった自分自身を今いる場所に当てはめて描かせたのではないか、ということです。またそうであれば、永禄5年の義晴13回忌法要が、絵の制作発注のきっかけかもしれない、とも述べられています。

 

以上が瀬田先生の説のまとめになります。

瀬田先生の説は、明確な結論は出されておらず、絵の主題が公方の構想であるという説や制作年代が永禄5年前後であるという説も、あくまで推論です。

しかし、絵には何が描かれているのか、誰の意志によって描かれたのか(発注者は誰か)という問題提起がなされたこと、これは今谷先生の説と同じくらいインパクトのある出来事で、以後に出てくる説は、この瀬田説への解答になるように思うのです。

 

2.4 その後

[5]『謎解き 洛中洛外図』黒田日出男 岩波新書 1996

この本、ものすごく面白いです!

私が洛中洛外図の研究史が面白いと思うようになったのも、この黒田先生の本を読んだから、というのが大きいです。

本自体は200ページくらいで読みやすいながらも、前述のようにそれまでの洛中洛外図研究の流れをまとめ、今谷説と瀬田説を受けての謎解きをし、そして決定的と思われる発見をされ、結論まで導き出されています。

 

まずは今谷説への反論ですが、ここでは黒田先生ご自身の反論と言うよりも、ものすごく丹念に今谷説を解説し、評価し、主に他の研究者からの反論についてまとめられています。

そして、他の研究者の反論の中で、黒田先生ご自身の「謎解き」に活かすべきとする点は以下のとおりです。

・景観年代は、写実ではなく「非特定時点景観説」つまり様々な年代の景観が混ざっている可能性がある。

・制作年代は、特定の年代の景観であることを前提して議論するべきてはない。

・描かれていない景観については、議論の対象とするべきではない。

・今谷説で判別できないとされた永徳の壺印は、美術史家の研究から、永徳印であることは間違いない。

・景観年代は、天文末年から永禄4年ごろの京都であり、なぜこの時期なのかに徹底的にこだわるべきである。

 

次に、瀬田説についても言及されます。今谷説と同様に瀬田説についても丁寧に解説され、そして、発注者とその構想に着目された点を、研究史上の大きな転機と評価されています。

一方で、瀬田説の結論が推論であり、しかも主として以下の点に疑問が残る、とされています。

① いつどのようにして上杉家に伝わったのか

② 義輝は何のために発注したのか

③ 公方邸とそこに至る行列について言及していないのはなぜか

 

さて。

上記のように、それまでの先行研究をじっくりと吟味した上で、いよいよ黒田先生の「謎解き」が始まります。

謎解きの前提としての黒田先生の説は、主に以下のようなものです。

・上杉本は写実ではなく「再現された絵画作品」である。

・景観年代は天文16年(1547)から永禄4年(1561)の数年間である。

・制作年代は瀬田説を支持し、永禄4年(1561)3月(三好邸御成)から永禄8年(1565)5月19日(永禄の変)までである。

・製作者は狩野永徳である可能性が高い。

・注文主は瀬田説を支持し、足利義輝である。

基本的には、瀬田説を継承しつつ、前述の疑問点を埋めていく形で謎解きは進んでいきます。

 

まず、黒田先生が最も注目したのが、瀬田説の疑問点③「公方邸へ至る行列」です。

この行列については、既に着目している先行研究もあるのですが、それらはあくまで「貴人の行列」でした。

では、この「貴人」とは誰なのか。

黒田先生は、この行列の貴人こそが上杉謙信である、という説を示されます。

上杉本を「鑑賞する人(贈られる人)」は誰かと考えた場合、上杉本には内裏に特に多くの説明文字が記載されており、「内裏に関心を持ち」「足利義輝から上洛を期待され」「公方邸に挨拶に来れる管領クラスの大名」は「上杉謙信」だろう、と考えられます。

つまり上杉本に描かれた公方の構想の主題は実はこちらであり、足利義輝は上杉謙信が関東管領に任命される祝儀として発注(瀬田説疑問点②)し、「管領に任命する。この絵に描かれたように上洛して挨拶に来て欲しい。そして管領として補佐してほしい。」という意味を込めたものではないか、とされています。

 

この説、ものすごく魅力的で納得もできます。

黒田先生はその後、仮説を補強するための史料を探します・・・が、見つかりません。

途中で、「瀬田先生だって仮説で止まってるし、これでもいいじゃないか」と心の怠け者に囁かれた、などとも書かれており、とても親近感が湧いてきます。

しかし黒田先生はここで諦めず、自身の説を遡り、どこに問題点があるのかを考えられます。

結果として、今谷説で提唱され、瀬田説でも疑問点①となっていた「いつどのようにして上杉家に伝わったのか」という問題が浮上します。

上杉本は、もともと定説では「織田信長が上杉謙信に贈った」とされていたのですが、その根拠となる史料は今谷先生によって「江戸時代や近代に書かれたものであり、史料価値・信憑性が低い」とされていました。

しかし、この今谷説は本当に正しいのか。

今まで、発注者と贈り主がイコールと考えていたが、発注者と贈り主が違う場合もあるのではないか。

これを突き詰めるべく、今谷説で信憑性が薄い、とされていた史料を再度検討し、新たな史料を発見されます。

発見された史料「(謙信公)御書集」には、以下のように記述されています。

一 同年三月、尾州織田信長、為使介佐々市兵衛遣干越府、被贈屏風一双、画工狩野源四郎貞信、入道永徳斎、永禄八年九月三日画之、花洛尽、被及書札、

・天正2年3月に織田信長が、佐々市兵衛を使者として、屏風を上杉謙信に贈った。

・屏風を描いたのは、狩野源四郎貞信、入道名は永徳斎である。

・永禄8年9月3日に完成した。

・屏風の画題は「花洛尽」つまり洛中洛外図である。

 

これはもう・・・確定でしょう。

結論として、上杉本は、足利義輝が上杉謙信に贈るために、永禄7年から8年ごろに狩野永徳に制作させたものであり、足利義輝の死後、屏風を手に入れた織田信長が同盟相手の上杉謙信に贈った、ということになります。

 

以上、長くなりましたが、黒田先生の説のまとめです。

先行研究の丁寧な解説と読み解き、そこから自説への展開、再考と史料調査と、まさに「謎解き」という一冊です。

黒田先生の発見は、今谷先生も新書版の補足において、検討の余地はあるとしながらも重要性を認められており、上杉本についての謎は解かれたと言える・・・と思うのですが。

ただ、この結論の場合、公方邸が武衛邸跡の義輝邸ではなく、義晴の今出川御所であるのが、ちょっと引っかかるような気もします。

謎は解けたのか。

 

 

[6]『洛中洛外図屏風 つくられた<京都>を読み解く』小島道裕 吉川弘文館 2016

洛中洛外部屏風を知る上で、ガイドブックとも言える本です。

「来週、洛中洛外図屏風の展示を見に行くんだけど、どういうものなの?」という人は、まずこの本を読むべき!というくらい、上杉本に限らず洛中洛外図屏風全般について、ものすごく丁寧に解説されています。

私は基本的に出版年順に読んでいったので、この本はかなり後に読んだのですが、最初に読むべきだった・・・というのが第一の感想でした。

著者の小島先生は、中世史の研究者ですが、国立歴史博物館の教授であり、洛中洛外図屏風の専門家と言ってもいいのではないでしょうか。

上記のようにガイドブック的な本であるため、それぞれの屏風についての自説はそれほど詳細ではないのですが、室町幕府と細川邸を軸として、初期洛中洛外図から一連の時代の流れを読み取られています。それぞれをまとめてみます。

 

歴博甲本について

大永5年(1525)に完成した柳の御所が描かれており、また天文5年(1536)におこった「天文法華の乱」で破壊された寺社も描かれているため、景観年代は大永5年(1525)から天文5年(1536)である、とされています。

歴博甲本に描かれる幕府は、文献史料を再検討した結果、大永5年(1525)に細川高国が足利義晴のために造った「柳の御所」である、と結論付けられています。この史料は「御作事方日記」という御所移転の顛末を記したもので、場所の選定では、細川高国が細川邸の近くに住む被官(香川以下四、五人)の土地を提供し、そこに御所を建てさせた、という経緯のようで、高国の囲いっぷりがすごいというかなんというか権勢の強さが見て取れます。

そして、制作目的と発注者についても、細川高国の「勝利宣言」として高国本人もしくは周辺の人物が描かせ、三条家に伝わったのは、義晴の上臈となる予定の三条家息女への引出物だったのではないか、とされています。

また、将軍御所、細川邸、典厩邸周辺の人物についても、誰が描かれているのかについて言及されており、上記の制作目的と発注者の論拠とされています。

 

確かに・・・柳の御所が造営された時は、先代義稙の出奔後、義晴を将軍に立て、高国にとってつかの間の平和だった時期です。

その直後、高国の嫡子種国が病死し、内紛がおこり、さらに阿波勢が上陸し、高国政権は崩壊していきます。それを考えると、上杉本には義輝の夢が描かれましたが、歴博甲本には高国の夢が描かれているわけです。切ない。

 

東博模本について

描かれた内容から天文12~13年(1543~44)の景観が描かれている、とされています。

東博模本に描かれている幕府ですが、この本だけ幕府が右隻に描かれています。他の本は左隻なんですが、全体的に左隻の絵を右につめた結果、入り切らなくなり右隻に移動したようです。この位置は、先に描かれた歴博甲本時代の柳の御所ではなく、細川晴元が天文8年(1539)に花の御所跡地に足利義晴のために造営した「今出川御所」である、とされています。

そして、御所が右隻に移動して空いた左隻のスペース、そこに新たに追加された要素が、「さんしうのやかた(讃州の館)」と「讃州寺」です。讃州、つまり阿波細川家です。

さらに三好氏の祖先とされる「おがさ原殿(小笠原殿)」が描かれていることもあり、歴博甲本が高国ワールドだったのに対し、東博模本は阿波ワールドだった、とされています。

そして、実際に、原本は阿波に運ばれたのではないか、と推測されています。

 

もし小島先生の推測のとおりだったとしたら、発注者は誰なんでしょうね・・・。

ここからは完全に私の妄想ですが、天文12~13年というと細川氏綱が挙兵したころで、まだギリギリ、三好長慶と三好宗三が同陣営で、京兆家と阿波細川家も同じ陣営です。阿波に運ばれたとすれば、発注者は細川持隆か、もしくは誰かが細川持隆に贈るために作らせたのかな、と思うのです。晴元が元長の件で気まずくなってしまった弟に、とか。そこには芸術に強い宗三のアドバイスがあるのではないか、とか。または、実休が長慶に頼んで阿波のお館様に、とか。妄想が広がります。

 

上杉本について

瀬田説と黒田説を足して2で割らなかった説、をとられているのではないかと思います。

黒田説を通説としながら、上杉本に描かれているのは完全に架空の世界であり、足利義輝と上杉謙信が「見たい京都」が描かれている、ということです。また公方邸の場所については、花の御所跡である今出川御所こそが、義輝の目指す復興した幕府の姿である、とされています。

細川邸については、それまでの歴博甲本と東博模本で描かれていたような中心ではなくなり、建物自体も小ぶりで目立たない描き方になっています。また、家の中に主人もいないこと、それまでは権威の象徴として描かれていた下馬所の赤毛氈鞍覆いの馬が雲で隠され、典厩邸から離れる方向へ逃げるように描かれていることなどから、権威が細川邸から離れている意味を込めた、とされています。

 

歴博乙本について

これまでの3本と全く異なり、幕府と細川邸の大きさが他の建物と同程度となり、中心主題から外れています。

制作時期は、風俗画などの細部の検討より、織豊期の1580年代まで下がると考えられますが、豊臣秀吉の新たな京都が出来上がる以前、風俗画以外の部分は昔の都市風景をそのまま描いたのではないか、とされています。

 

以上がざっくりとした各本についてのまとめですが、この本が面白いのは、各屏風個別の説もさることながら、やはり洛中洛外図屏風という全体を通して見ている点だと思います。

例えば、初期の4本についてだけでも、上記のように公方邸・細川邸・典厩邸などの通して描かれているものの位置や大きさから、各時代における力の盛衰を読み取られています。

また、各屏風の絵を見比べることで、公方邸や細川邸などの建物については、粉本(見本のような絵)があり、それを各屏風で写していたという説をとられています。このお手本説が確定だとすれば、初期に建築学的見地から建物の考証に洛中洛外図を使用していた研究にとっては、衝撃的な事実かもしれません。

建物だけでなく、屏風に描かれた人物や看板にも着目し、風俗文化を読み取っていかれているのも、とても面白いです。

 

 

[7]『歴博甲本 洛中洛外図屏風の研究』小谷量子 勉強出版 2020

上記のように1970年代から2010年代までの本を色々と読んできて、様々な説が出され、反論が出され、研究が進み、ようやく一応の通説というところに落ち着いたのかな・・・と思っていたところへ、まったく別の視点から反論をされたのが、この本です。

どれくらい別の視点かというと、今まで3次元で暮らしていたと思っていたのに実は4次元でした、というくらい。

 

著者の小谷量子先生は、日本中世史と日本美術史をご専門とされる研究者で、タイトルにある通り、歴博甲本についての論文集になります。

何がそんなに別視点なのかと言えば、主題の読み取り方です。

これまでの研究では、主題については政治構想であったり、夢の国であったり、勝利宣言であったりしましたが、概ね当時の権力者が望んで目指した「京都の町の姿」を描いたもの、というものでした。

これに対し、小谷量子先生の説は、洛中洛外図を「やまと絵」として読み解くことで、主題や制作目的を解明することができる、というものです。

この「やまと絵」として洛中洛外図を見るという見方、実は、[2]で見たように研究史の初期の頃には、その重要性に言及する研究もありました。しかし、研究の流れは、京都の町としての景観年代や製作者の比定についてが大きな論点となっていきます。

それらがどうやら一段落したのでは?というところで、再び「やまと絵」が論点に上げられたわけです。

とはいえ、中世日本史のご専門でもあるため、公方邸の位置を史料から検討したり、将軍家に連なる女性を史料から検討して比丘尼御所(尼寺)との関係を示されていたりします。美術史と中世日本史、両方の視点から検討を加えられているのですが、その分量と検討結果の詳細な提示、また表などでわかりやすく纏められているのが、本当に素晴らしいご研究だと思います。

 

さて。

小谷量子先生の主題に関しての説ですが、これこそが、私が一番最初に触れて心が震えた説、「細川高国の辞世の句を受け取った足利義晴が鎮魂のために描かせた」というものです。

この結論の理由として、細川高国が詠んだ辞世の句のうち、

絵に写し石をつくりし海山を後の世までもめかれすそ見ん(足利義晴へ)

犬追物今一度と思ひこしあらましはたゝいたつらにこそ(北畠晴具へ)

という二句の描写が、歴博甲本には描かれている、とされています。

実際に、歴博甲本の細川邸には一人庭を見る高国の姿と、犬追物を行う犬馬場が描かれています。特に犬追物は、他の洛中洛外図には描かれておらず、また実際には流れていない川がすぐ横を流れており、この川が此岸と彼岸を隔てる川である、とされています。

更に、この屏風が細川高国の物語である論拠として、季節外れの糸桜が咲く近衛邸に着目し、近衛稙家と細川高国の親密な友好関係(高国は稙家の屋敷のお風呂を頻繁に借りていた!)を史料から示します。

また、門前で鶯合が行われている三条西邸についても同様に、史料から、三条西実隆と高国との友好関係(三条西実隆と高国は子供のころに出会っていた!)を示されています。

そしてもうひとつの主題として、足利義晴が父親の足利義澄を偲んでいること、これを高国の場合と同じく、義澄の詠んだ歌を屏風の中に見つけることで示されています。そして、義澄と広橋守子とのスキャンダル悲恋を暴かれているのですが、これは・・・そうなの?!えええ???

とまあ、ドキドキするような説も多いのですが。

歴博甲本は、足利義晴が、実の父である義澄と育ての父ともいえる高国を偲び、また彼らの功績を讃えて描くことで「天下泰平万民楽業」を祈ったものである、と結論付けられています。

 

この小谷量子先生の説、本当に心が震えますし大好きです。

が・・・

ものすごく個人的な感想を言わせていただければ、今谷先生の説の展開に似ているかなあ・・・とも思うのです。つまり、やまと絵であることから始まった結論が見え隠れするような。説の矛盾はないけど、他の説も矛盾しませんよね、というような。

ただ、つい先だって出版された本ですので、これから大きな流れになるのかもしれない、とも思います。後書きで上杉本についての論も出される予定とありましたので、すごく楽しみにしています。

 


 

以上!

長々と研究史の流れをまとめてみました。長文を最後まで読んでくださった方がおられましたら、本当にありがとうございます。

 

洛中洛外図研究の流れ、様々な説が出ては反論が出てきましたが、結局、初期に言われていた説に落ち着いた感もあります。ただ、単に元に戻ったわけではなくて、そこに至る研究の積み重ねの上の結論で、螺旋のようにぐるぐると回りながら進んでいっているのだと思います。今後も、一ファンとして、書籍や映像など追いかけたいと思います。

 

また、上記のまとめはあくまでも歴史も美術史も素人の一般人がまとめたものです。本の内容の読み取り間違いや、おかしな感想(妄想)を述べている箇所もあるかと思いますので、興味を持たれた方は、是非、ご自身で本を読んでみることをオススメします。(そして間違っていた箇所があれば教えて下さい。)

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