『戦国期室町幕府と将軍』感想
少し古い本ですが、11代義澄・12代義晴時代の幕府と周辺を知る上で充実の内容!でした。
そして。
図書館で借りた本だったので自分でも買おうとAmazonで調べたら衝撃のお値段だったのですが、出版社様からオンデマンド版で定価発売されている模様です。良かった良かった。
(追記:2020年12月16日現在、紀伊国屋書店とe-honでオンデマンドの取り扱いがあるようです)
備忘録も兼ねまして、おおまかな内容と感想を書いておきます。
全五章+終章からなる本です。
第一章 明応の政変直後の幕府内体制
第二章 山城国衆弾圧事件とその背景
第三章 文亀・永正期の将軍義澄の動向
第四章 戦国期の政所沙汰
第五章 戦国期の御前沙汰
終章 補足と課題
前半の第一章~第三章は足利義澄と周辺の状況が主となっています。
著者の山田先生は、この本の出版後、足利義稙の評伝や足利義輝・義昭の評伝なども出版されています。
前半の義澄政権については、この足利義稙評伝の裏側というか(義稙本の方があとで出たのであちらが裏側かもですが)、義稙の華々しい(?)復活劇の裏ではこんなことになっていたんですね・・・という、更に、細川政元の個性的(?)な行動の裏ではこんなことになっていたんですね・・・という、全体として義澄さんお疲れ様です!という内容です(違います)。
いやでも、義澄・義稙・政元に限らずですが、それぞれの行動って作用反作用のようなもので、併せて検討することでまた行動の意味が見えてくるものだと思います。
後半の第四章と第五章は足利義晴期の裁定が主となっています。
こちらは、先日出版された「足利義晴と機内動乱」にも纏められていて、私自身はそれを読んでようやく内談衆の輪郭がボンヤリと理解できた気がしていたのですが、政所沙汰と御前沙汰の違い、内談衆と奉公衆の役割分担など、更に詳しく論じられています。他の研究を読んでいないのでおそらくなのですが、「足利義晴と機内動乱」を書かれた木下先生は、山田先生の研究内容も多分に踏まえて、一般書として義晴期の通史を纏められたのかな、と思います。
どの章も詳細な検討をされているのですが、最終的な結論としては、
戦国期の室町幕府は細川京兆家による専制ではなく、将軍権力は確かに存在していた
を導くための検討、だと思います。
山田先生は、足利義輝・義昭の評伝などを読むと、バリバリの「室町幕府の将軍権威はまだまだ存在していた」説を唱えられています。この本では、終章で「本書では、戦国期「日本」における幕府の位置と役割の解明を果たすための予備研究」と書かれていますし、その後の山田先生の論説の大本となる研究なんだろうな、という印象です。
以下、それぞれの章が、どのように上記結論に繋がっていくのかを簡単に纏めてみます。
第一章 明応の政変直後の幕府内体制
明応の政変は、細川政元が将軍を義稙から義澄へすげ替え、以降、細川政元の京兆家の権力が増していくとされていましたが、
・明応の政変後、義稙直臣衆がすぐに義稙を離れて京都へ戻ったのは日野富子が義澄を支持した影響が大きいこと
・義澄は「政を伊勢に委ねている」とも言っており、伊勢貞宗が若年の義澄の「後見役」と言える立場にあったこと
・政元の要請が、幕府に却下されることもあったこと
上記のような点から、京兆家権力の他に伊勢氏の権力が存在したこと、また日野富子の影響力の大きさを論じられています。
第二章 山城国衆弾圧事件とその背景
応仁の乱が終わっても南山城の地で争い続けた畠山義就と政長に対し、南山城の国人たちが「いい加減にしとけよ?」と立ち上がったのが山城国一揆です。明応の政変以後、対義稙では同陣営の京兆家と伊勢氏ですが、この処遇問題で揉めます。
山城国は幕府のお膝元でもあり複雑なのですが、経過は以下のとおりです。
・幕府は山城国を御料国とする方針をとる
・山城国守護に伊勢氏が任じられるが、山城国衆は京兆家の被官も多かった
・伊勢氏は対義稙の備えとして山城国の寺社本所領に入部する
・自治を行っていた国衆は反発し、伊勢氏による国一揆の弾圧が起こる
この伊勢氏の動きに対し、京兆家は、被官の山城国衆を保護しようと伊勢氏と揉めることになるのですが、国衆の保護が徹底せず、伊勢氏と全面対立にまでは至っていません。結局、守護は伊勢氏、守護代は京兆家内衆、という形で落ち着きます。
これは、京兆家にとっては、伊勢氏との連携が「より」重要だった、また伊勢氏の方でも京兆家の軍事力が必要だった可能性がある、とされています。
では何故、伊勢氏と京兆家が対立できないかと言えば、外部勢力=義稙派の存在です。伊勢氏の影響力とともに、廃立されたとは言え前将軍としての義稙の求心力も感じられる章です。
第三章 文亀・永正期の将軍義澄の動向
足利義澄と細川政元との対立を詳しく説明されています。この辺りは、有名な動画などで、詳しく分かりやすく解説されていますので周知だと思います。
が、改めて文章で一連の流れを見ると、ホントもうちょっとお互い協力しようよ・・・というか、いやでも協力しようとした結果がコレなのか・・・というか、なんとも言えない焦れったさが湧き上がってきます。
対立の数々を表にまとめてみました。
和暦 | 西暦 | 月 | 出来事 | 原因 |
文亀元年 | 1501 | 1月 | 正月の挨拶で揉めて、政元が正月末まで出仕せず | 海老名事(将軍直臣の海老名高定が原因か?) |
5月 | 政元が安富元家に全権委任して引きこもる | 義澄が妙法院門跡を義稙との内通を疑い所領没収。その所領を海老名高定などに与えたことが原因か? | ||
文亀2年 | 1502 | 2月 | 政元が隠居宣言。安富邸に引きこもった後、丹波に下向。その後、槇島へ。義澄が自ら槇島まで出向き、翻意して帰京。 | 義澄が寺社本所領を闕所(没収)して将軍直臣に与えたことに対する反発 |
8月 | 義澄が隠居宣言。岩倉に蟄居。政元が伊勢貞宗が参上し、政元に五ヶ条、貞宗に七ヶ条の要求を突きつける。 | 政元への要求である、武田元信(若狭武田氏)の相伴衆免許、実相院義忠の誅殺などから、将軍としての存在顕示が目的か? | ||
文亀3年 | 1503 | 7月 | 政元が槇島で「在国」を宣言。義澄は二度も槇島へ赴き、帰京を説いて、ようやく帰京する。 | 帰京後、義澄が小物松若を誅し、伊勢定忠が本鳥を切っている。関連性はあるかも? |
永正元年 | 1504 | 3月 | 政元が薬師寺元一の摂津守護代を解任しようとしたところ、義澄が解任中止を申し入れる | 義澄が京兆家内に自己の影響力を及ぼそうとした可能性がある |
永正2年 | 1505 | 正月 | 酒宴で政元と義澄が「問答」し、政元は義澄の酌も受けずに席を立つ | 政元が「諸大名和睦事」を「執申」したところ、義澄が喜ばなかったため |
永正3年 | 1506 | 5月 | 政元が「富士狩」に下向する用意 | 義澄が寺社本所領の不知行地還付令を出し、京兆家抑圧政策をとったこと。若狭武田氏の丹後攻めに関連した対立など。 |
6月 | 政元が「遁世」を宣言。義澄が自ら赴いて遺留。 | |||
7月 | 政元が「東国物詣」のため山科本願寺へ。義澄は側近を派遣後、自らも赴いて京都に連れ戻す。 | |||
11月 | 政元が「阿波へ下向」するとし、堺へ。義澄は側近を派遣後、自ら摂津へ赴き、京都に連れ戻す。 | |||
永正4年 | 1507 | 4月 | 政元が奥州下向のため、若狭へ。義澄は、御内書を送り、さらに天皇の勅書を要請して送り、帰京をさせる。 |
・・・政元はどこまでだったら許してもらえるか愛情を確かめているのかな?
さて。
対立の出来事だけを見ると政元の行動に義澄が振り回されているようにしか見えないのですが、その原因を見ていくと、義澄の政策に対して強く反発している政元の姿が見えてきます。
山田先生はこの結果から、将軍権力を強めようとする義澄に対し遁世や下国を仄めかすことしかできない政元と、それでも政元を遺留し頼らざるを得ない義澄、という相互依存の関係を読み解かれています。
しかし、こうして在京大名に支えられるのが本来の室町将軍の姿であり、また大名も将軍を擁立し続けることが近隣諸大名との関係や分国支配には必須であり、この対立の根本原因は、応仁の乱後の在京大名の帰国と、そもそもの体制としての室町幕府の制度にある、とも述べられています。
そう考えると、やっぱり義澄さんお疲れ様です・・・という感想になります。
そして、これを打ち破った三好長慶はすごいよね!という三好フィルターのかかった感想も添えておきます。
第四章 戦国期の政所沙汰
代々伊勢氏が世襲していた政所について、その権限や訴訟の仕組みを詳しく解説された章です。
・訴訟には莫大な費用がかかるのに、それでも勝訴したいというのは、それだけの価値が幕府の出す判決にはあった
・京兆家は政所沙汰には関与していない
上記から、幕府の権威の存在を論じ、また京兆専制への反論をされています。
訴訟の仕組みも興味深いのですが、更に目を惹かれたのが、義輝期の伊勢氏の没落と摂津氏の政所就任の一因を、義輝と伊勢氏との対立から論じられている点です。
伊勢氏を頭人とした政所沙汰に将軍は基本的に関与していないのですが、義輝期ではこれを見直し、伊勢氏の権限を将軍のもとに置こうとしたのではないか、とされています。
実際、義輝は伊勢氏の政所沙汰に介入しようとして三好方(松永久秀)に押し返されていますが、それが三好氏と伊勢氏の繋がりの原因となったのではないか、更に伊勢氏への対抗として今度は三好氏に栄転授与などで接近し、伊勢氏の孤立化を図ったのではないか、というものです。
三好氏への接近は三好氏側の視点も必要だとは思いますが、伊勢氏の没落に関しては山田先生の言われるように「一因」ではあるのでは、とも思います。
しかし・・・義輝はやることが直接的ですよね。。。お父さんの義晴のように、独自の裁決権を制定するやり方もあったのでは、とも思いますが、これは今だから言える後出しの感想ですね。義輝さん、ごめん。
第五章 戦国期の御前沙汰
その義晴期に成立した内談衆による御前沙汰について、論じられています。
内談衆と奉行衆の役割と権限の違いや、義晴と内談衆との意見交換の方法など、本当に詳しく解説されています。
例えば。
奉行に訴訟などが持ち込まれた場合。
・通常ルートであれば、奉行が内談衆の定例会議の日に披露し、評議する。
・定例会議が開催されない、案件が多すぎるなどで、上記が難しい場合、内談衆の一人が持ち回りで担当する日行事に伝え、日行事が他の内談衆を収集して会議を行う。
・それでも内談衆が集まるのが難しい場合、「折紙」を回覧して、そこに各内談衆の意見を書き入れ、それを日行事がまとめる。
・折紙の回覧の時間も惜しいような緊急の場合は、日行事が将軍へ直接上申する。
などなど、臨機応変に対応していたことがわかります。
また内談衆内では、年齢などに関係なく対等な立場で意見を述べあっていたこと、将軍義晴は内談衆の総意に必ずしも従う必要はなく、最終決定権は将軍であったこと、なども書かれており、こうみると、理想的な関係に見えます。
一方で、将軍義晴と個人的な信頼関係で結ばれていた内談衆に対して、奉行衆というのは幕府の世襲制官僚ともいうべきもである、とされています。この奉行衆は、世襲制であるがゆえに鎌倉以来の先例・故事等に精通する官僚であり、その意見は義晴も尊重していました。
しかし、奉行衆に「意見」を求めるかどうかは、あくまでも将軍と内談衆が決め、ここでも最終決定権は将軍であることを強調されています。
義晴期は、こう見ると本当に理想的だと思えるのですが、内談衆はその後無くなってしまうのですよね・・・義輝の将軍就任による自然消滅なのか、なにか原因があるのか、気になるところです。
以上が、大まかなまとめです。
義澄期・義晴期のことがよくわかる、本当に素晴らしいご研究だと思いました。
最後に、山田先生ご自身が終章で挙げられた課題として、結論として京兆専制ではなかったということを導き出したが、では京兆家側は?ということがあります。これには、馬部先生が答えたのかな、と思うのですが・・・
私自身は、あの分厚い本をまだ読み切れていません・・・
(私自身の)今後の課題としたいと思います。