『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』にみる三好邸
永禄4年(1561)、足利義輝が三好邸へ御成した、というのは(一部の人の間では)割と有名な話かと思います。
永禄元年の三好長慶と足利義輝の和睦後、両者の関係を書く中ではよく出てきますし[1]、また、洛中洛外図上杉本の景観年代や制作年代などを巡る論争の中で、三好邸(と松永邸)が描かれていることが争点の一つになり、その中で三好邸への御成が論拠とされてきたこともあります。
「御成」というのは、上司が部下の家を尋ねる、ということなんですが、天野先生は更に詳しく「御成というのは、主君が家臣の邸宅に赴き、接待を受けることで、主従関係の結束の固さを示すものである。将軍が、本来は陪臣であった三好氏に御成することは極めて異例な出来事であった。」[1]とされています。
将軍直臣かつ三好氏の主君である細川氏綱邸ではなく、三好邸へ将軍が直接御成をした、というのは、当時の三好氏の権勢の強さを示す出来事だった、ということですね。しかも、その場に細川氏綱さんもいますからね。もうこの辺りの微妙な力関係とそれぞれの心中を想像すると、ちょっと胃がキリキリしてくる気もします。
永禄4年の御成があった時は三好兄弟4人がまだ全員健在で、まさに三好家の絶頂期です。「麒麟が来る」の中で、不貞腐れた将軍と上機嫌な三好長慶のシーンがありましたが、もしかしたらあんな感じで慇懃無礼な三好長慶だったのかも、と妄想も捗ります。
それはともかく。
この三好邸への将軍御成、有難いことに記録がキッチリと残されています。
「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」(群書類従) 国立公文書館デジタルアーカイブ[2]
以下は別バージョンです。
「三好亭御成記」(続群書類従)[3]
まあ・・・原文は私には難しくて読めないんですけどね。
ただ、字は読めないのですが、三好邸の図面の一部が描いてあります。
絵ならわかる!と思いきや・・・
この図面、単線な上に縮尺もわからず、字も読みにくい。
そして、御成で使われた部分のみらしく、残念なことに途中で切れています。
結局、どこで何が起こったのかサッパリ・・・だったのですが。
群書類従の翻刻をコピーすることが出来まして。
さらに、以前に参考にした「洛中洛外屏風の建築的研究」堀口捨己著(『書院造りと数寄屋造りの研究』鹿島出版会 1978)[4]の中で、「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」(以下、御成記)に記載された建築に関する部分のみが解説されていました。
これはもう・・・自分で図面をおこしてみるしかないのでは?
ついでに3Dで立ち上げたら、もっと分かりやすいのでは!
と思い立ってやり始めたら、ものすごく時間がかかって大変なことになったのですが。
細部が推測だらけでどうなんだろう・・・とも思うのですが、なんとか形を作ったので、堀口先生の解説も参考に、以下にまとめおこうと思います。
1.平面図と3D図
【平面図】
(画像クリックで大きな画像が別ウィンドウで開きます)
以下、図の簡単な説明(というか言い訳?)です。
・方位は、上が東、下が西、右が南、左が北、です。
・図中の文字は、オレンジ背景の「四間」「六間」「九間」が御成記の文中で出てくる部屋を示すために追加で書き入れたもの、それ以外は、元図に書き込まれていたものです。読み取れないところは?となっています。
・畳については、文中で畳について明記されているのは「四間」だけなのですが、「座敷」という記載と、当時の三好氏だったらここではケチらないよね?という単純な推測と、あと部屋のおおよその大きさをわかりやすくするために、全室に描き入れています。敷き方も、今は祝儀敷とか不祝儀敷とかありますが、この時代はどうだったのかまで調べきれていないため、小さめの部屋は祝儀敷っぽい敷き方で、大広間は横並びにしています。
・柱については、図中で柱が明記されている部分と、ここに無いと収まらない、という部分のみ入れています。実際には、もっと細かいピッチで入っていたと思います。
・建具については、御縁に面しているところは障子、内部は襖にしていますが・・・元図が単線なので、これまた全て推測です。このあたりはご容赦ください。
・御縁については、図中で中途半端に切れているため、「六間」「九間」「御供衆座敷」の前のみにしていますが、もしかしたら「女房衆」の方まで廻っていたかもしれません。
「九間」に書き込まれている人の名前は、左上から下に、
・廣大=広橋国光 ・飛中=飛鳥井雅教 ・義長=三好義長(以下、文中では義興とします)
右上から下に、
・勧一=勧修寺尹豊 ・永相?=高倉永相 ・氏綱=細川氏綱 ・長慶=三好長慶
だと思います。(参加者は[1]より)
座席順から見ても、長慶はあくまでも後援の形をとって、義興を前に出そうとしているのが感じられますね。
そして、最初に思ったのが、意外と狭いな、ということ。
メイン会場の九間でも18畳。広いと言えば広いですが、将軍御成と言うと、後の江戸時代みたいなババーーンと50畳くらいの部屋を想像してしまっていました。でも、今の一般家庭でも広めのリビングならありそうな広さで、割とヒューマンスケールに合致した部屋です。
【3D図 南東より】
【3D図 南西より】
2.御成記より詳細を見る
では、御成記の記述を抜粋しつつ、堀口先生の本も参考に細部を見ていきたいと思います。
2.1 義輝到着から能観劇まで
一、冠木門幷主殿之破風。新披申付之。奉行米村但馬守。
三好側は、将軍を迎えるにあたり、冠木門と主殿の破風を新築しました。
大々的に作ったわけではなく、門だけなんですよね。能舞台はもともとあったのでしょうか。
一、御妻戸立砂 アマダレヨリ六寸出テ立申由、河原者申之 立砂の満中を御興寄申なり。
則奥の四間へ御成。此時庭上ヘ御相伴の堂上。右京兆。修理大夫殿。庭上へ御オリ。一、筑前守殿ハ。裏打大口。冠木門ノ北ニ出向被申。三好日向守。三好下野守。十人計被罷出ナリ。
三好邸に到着した義輝将軍は、立砂のところに輿を寄せ、そのまま奥の四間(八畳敷)の部屋へ入ります。
筑前守(三好義興)は、裏打大口の袴姿で、冠木門の北で出迎えたようです。三好日向守(三好長逸)や三好下野守(三好宗渭)はじめ10人も出迎えました。
そして、右京兆(細川氏綱)と修理大夫(三好長慶)は庭で出迎えています。
一、於四間の御座敷三献参。三目ノ御盃。義長頂戴。仍御太刀白進上。御盃頂戴以前ナリ。御座敷様躰大方繒圖相見之。
四間では三献参、とありますので、ここで一度目の饗応が行われたようです。
義興に盃が与えられ、義興からは太刀が進上されます。御座敷の様子は絵図を見てね、と、ここに平面図が書き込まれています。
一、式三献あがり。於御妻戸。御馬被御覧。(略)三好日向守。裏打大口ニテ御馬被曳。
一、御馬被御覧。直ニ九間へ御成。御座ヲバ敷申候ヘ共。御座の前ニ御座あり。やがて御盃参り。此時初献。進物進上。ニ献参テ。三献目に。献目ハ献ハヅレナリ。御湯づけ。御菓子参りて。御相伴衆次の間へ退出。御相伴衆へハ。楊枝すへず。さて公方様も御休息所へ御成。やがて面へ御成。さて五献目進物参る。御肴参て。御能始申儀如常。
一、於御妻戸御馬被御覧時は。右京大夫殿。修理大夫殿。庭上に御祗候。御供衆同前。御劔御役晴賢。御一人御縁に祗候。堂上ハ不及祗候。庭上へ御下御かげニ祗候。義長ハ此間にこすハう着用被替之間。庭上へ不被罷出。
式三献が終わった後、妻戸に馬が曳かれてきます。これを曳いてきたのは、三好長逸。後の記述ですが、氏綱と長慶も庭に出てきています。義興は着替え中で出てこなかったようです。
そして、義輝は馬を見た後、九間の御座に移動し、そこで酒宴となります。
盃を重ねながら、更に進物も進上され、湯漬けやお菓子も出されます。五献が済んだところで、一旦、休息所へ移動して休息し、その後再び表へ出てきて能が始まる、とありますので、九間のすぐ上(東)の部屋で「御休所へのみち也」と書いてある左(北)の部屋(下図の赤色の部分)が休息所だったかと思われます。
2.2 「なんど」と「三畳敷の茶室」
一、御なんどの内に文台、硯、引合、杉原紙、鎮置也。但四間の西の方に置也。
一、次の三畳敷ニ御茶湯在之。春阿仕之。置道具事。御ちゃわん。同臺上ノヲ申出。御ちやつぼに入。さしやく御ちやせん。御茶きん。御ぼん。水さし。水こぼし。杓たて。火ばし。かくれが御たな打置也。ざうきん。をきかき不置。すみとり入江殿より申出。火ふき不置。ふろくはんす上のを申出之。をきがみ。ならがみのはしをきる。紙ちんを置也。
能が終わった後、三畳の座敷でお茶が供されたようです。
ここで、悩みまくった(現在進行形)のが、この三畳敷の茶室はどこか?ということです。
「次の三畳敷」とあるのですが、次ってどこの次?という・・・
素直に考えれば、すぐ前の文に御なんどの内に云々とありますので、その隣の部屋となるのですが、上図で「御なんど」と書いてある部屋の隣は「御休所」で、ここは後述しますが四畳半なのです。
三畳敷は、この図面には載っていない部分かな、とも思ったのですが、御成記を読み進めていくと、この「なんど」という言葉に似た記述が翌日の場面でも出てきます。以下、そこだけ抜粋してみます。
一、四間御成の御座敷ニ成て是にて式三献参。御なんとかまへあり。
一、御座敷なんとかまへ(納戸構)の右の方に文台に引合、杉原の上に文鎮置也。御硯箱の道具は如常。
この何回も出てくる「なんど」という言葉について、堀口先生は、
「なんとの内に……」とか「なんとのかまへ」と本文に両方出ており、指図には「御なんど戸有、御休所への道也」とも書き入れていて、先にのべた高国邸への御成記に「なんと一間半」とあったのが、帳台構えすなわち納戸構えであるごとく、この場合「なんと」も「御なんど戸」も「御なんどのかまへ」も同じ納戸構えを指しているのである。
とされています。
つまり、「御なんどの内」も「御なんとかまへ」も「御座敷なんとかまへ」も同じものを指している、ということです。
確かに「右の方に文台に引合、杉原の上に文鎮置也。御硯箱の道具」というのは、前述の「御なんどの内に文台、硯、引合、杉原紙、鎮置也。但四間の西の方に置也」とほぼ同じですので、「御なんど」と「なんとかまへ」は同じであると思われます。
では、「なんど」「なんどかまへ」とは何か?
納戸と聞くと物置のような部屋を思い浮かべますが、上記の堀口先生の本の引用には、納戸構え=帳台構え、とあります。
辞書で調べてみますと、
なんど‐がまえ[‥がまへ] 【納戸構】解説・用例〔名〕書院造りに見られる寝室の入り口の装飾化したもの。帳台構。(日本国語大辞典)
ちょうだい‐がまえ〔チヤウダイがまへ〕【帳台構え】書院造りの上段の間(ま)の側面などに設けた部屋飾りの一。畳より一段高く框(かまち)を置き、鴨居(かもい)を長押(なげし)より低く取り付け、引き分け戸または引き戸のふすまを設けたもの。(デジタル大辞泉)
となっています。
つまり、納戸構えとは、本当に「戸」のことで、書院造の建物で寝室の入り口を装飾化したものだった、ということです。
さらに、堀口先生は、
そして群書類従本の図の書入れ「御なんど戸有……」が左に行き過ぎて写し誤っていることが、「御なんとの内」は「但四間の西の方」であることから明らかであろう。
とサラリと書かれているのですが・・・
これはつまり。
誤) 正)
ということで、上の正の図で赤色で示している部分が「なんど」ということでしょうか。
これが正しければ、「次の三畳敷」というのは「なんど」の次、上図で青色で示している部分が三畳敷であり(平面図ではこの結論に沿って三畳としています)、ここで一日目の〆のお茶が供されたということになります。
ただ、「四間の西の方」というと方角的には下になりますし、別の論文[5]では、この三畳敷については場所を確定できないとしながらも、九間の左隣に書き入れている図があったりと、確定とまではいかないようです。モヤモヤモヤ。
2.3 六間・四間
一、六間の座敷餝無之。金屏立也。
六間(十二畳敷)の部屋には、飾りなどはなく、金屏風が立っていた、とあります。
一、四間御成の御座敷ニ成て是にて式三献参。御なんとかまへあり。一間半の押板二幅一対、山水馬麟、三具足、香筋、火筋、香合ニ卓子すハる。茶碗の三具足なり。花は周慶立る也。真は松也。
一、違棚には御盃、同台盆にすはる。湯瓶、是違棚の重の下に置也。下の重に食籠置也。春阿弥陀仏厳被申之。
一、御座敷なんとかまへ(納戸構)の右の方に文台に引合、杉原の上に文鎮置也。御硯箱の道具は如常。
一、御座敷の左に御弓、征矢廿五御弓東へ角かけて置也。
一、四間、何もきぬかうらいへりの御畳、御座敷也。
翌日、また四間にて、式三献の饗応がなされます。「御なんとかまへ」は前述のとおり。
四間の一間半の押板には、二幅一対の掛け軸がかかり、それは馬麟の山水図・・・なのかな。ここは堀口先生の本にも記載がなく、曖昧です。その他、香炉などの三具足が置かれていた、とあります。
座敷には弓が置かれており、またこの四間は絹高麗縁の畳だった、とあります。
2.4 九間と「二間の押板」
一、九間の御座敷西向きなり。二間の押板、絵三幅一対、王義之、脇は王輝筆云々。三具足、胡銅香筋、火筋、香合、御らつそく金。又この脇花瓶、茶碗、花有之。真何も松也。
九間は西向きで、二間の押板があり、三幅一対の掛け軸がかかっていました。また、四間の押板と同様に、ここにも香炉などの三具足や花が飾られていました。
さて。
ここに記載のある「二間の押板」についてなんですが、これについても堀口先生は、群書類従本には誤りがある、とされています。
この間は東に二間の床(押板)があるのであるが、群書類従本の図はここにも誤りがあって、意味をなしていないが、「御座シク」と書かれた後に右へ二間の押板があるのであって、中央の線は上部の間仕切の線の引き過ぎである。
どういうことかと言いますと、群書類従本の元図、この押板の部分は、以下の左図ようになっています。右図は今回作成した平面図の同じ部分です。
上記の堀口先生が言う間違いというのは、「御座ヲシク」の文字のすぐ上にある押板が「二間」の長さとあるのに、図の通りだと「一間」しかない、ということです。そのため、押板の真ん中に入っている線(下図の赤色の線)が、上の線がはみ出しているのでは?とされています。
確かに、長さとしては元図だと「一間」しかないので文章とは合わないですし、仮に元図が正しく文章が間違いだったとすると、押板の右に意味不明な空間(上図の青色部分)が出来上がります。この意味不明な空間が三畳敷と同空間で、三畳敷の方の押板や違棚だった可能性もありますが・・・
三幅一対の掛け軸がかかっていることを考えても、やはり「二間」はあったのでは、と思われます。
ということで、今回作成の平面図は堀口先生の説どおり、御座ヲシクの後方、右に寄せた二間の押板、としています。
2.5 能舞台
能舞台については、図面上では屋根の形状がわからず、また三好邸が描かれている洛中洛外図上杉本にも能舞台は描かれていないため詳細は分からないのですが、堀口先生は、三条本(歴博甲本)に描かれている「くハんせのう」の舞台と類似しているのではないか、とされています。三条本に描かれている能舞台は、四方が吹き抜きで切妻屋根です。後にはほとんど入母屋造りになるようですが、同時代の京都西本願寺白書院の舞台は、同じく切妻屋根だったと書かれていますので、三好邸の能舞台も切妻屋根だったのかもしれません。
2.6 奥の四畳半の茶室
一、奥の四畳半に御茶湯在之。御道具之事。
一御ちやわん同臺。 一御さしやく。 一ちやつぼ。 一ちやせん。 一ちやきん。 一御ぼん。 一水さし。 一水こぼし。 一ひしやたて。 一火ばし。 一かくれが。 一だいず。
一、御茶湯。棚のきはに雑紙在之。ならがみ。紙鎮置之。
一、御休息所ニ御はんざうだらい。御手のごいかけ在之。黒漆ニぬる。御紋のまき繪有。かな物在之。御うがいちやわん。
2日目の四間での式三献の後、今度は「奥の四畳半」でお茶が供されます。
奥の・・・どこの?(二度目)奥の?
またですよ。今度は、この四畳半の位置がわかりません。
この四畳半の部屋については、堀口先生は「どんな部屋が使われたかかわからないが、茶室という特殊な室ではないように思われる」とされています。
「奥」とあるからには、それこそ図面に書かれていない屋敷の奥の方の別の部屋かな・・・とも思っていたのですが。
三畳敷の茶室のところでも参考にした橋本先生の「室町時代政治儀礼における喫茶文化の受容について」[5]という論文の中で、この部分について述べられていました。
この論文の中では、上の群書類従本の記載では、茶道具一式が置いてある「奥の四畳半」と手洗・御手拭掛・御嗽茶碗などの洗面道具が置いてある「御休息所」は別室であるかのうように読めるが、続群書類従の「永禄四年三好亭御成記」では、洗面具がある御座敷が奥の四畳半を指しているため、奥四畳半=御休所である、とされています。
「永禄四年三好亭御成記」の該当部分は以下のよう書かれています。
一、奥四帖半有御茶湯、何御座敷、寿阿弥是飾、金屏風被立也、
一、茶碗同台、 一、茶杓、 一、茶壺、 一、茶筅、 一、茶巾、 一、水差、水コボシ、 一、御盆、 一、火ハシ、鎕、 一、カクレカ、 一、台子、
一、御茶間棚際雑紙アリ、重シニ文沈アリ、紙奈良ヤワゝゝ一束アリ、
一、此御座敷、楾角手洗、御手拭在之、
上の群書類従本と見比べてみると、楾角手洗(はんざうだらい)が置いてある「此御座敷」は「御休所」であると分かります。
「此御座敷」というのは、そのまま「奥四帖半」だと思われますので、休憩所こそが「奥の四畳半」だったわけです。スッキリ。
ということで。
とてもざっくりとですが、御成記から三好邸(一部)の各部屋の位置や大きさ、飾りをまとめてみました。
今回抜き出した部分は建物に関する部分のみなのですが、御成記にはそれはもう事細かく、誰がどの部屋にいたのか、進物は何だったのか、誰が何を持ってきたのか、将軍にお酒を注いだ順番、料理は何か、まで記録されています。これ、その場でメモをとっていたのか、全部覚えていたのか。全部覚えていたとしたら、とんでもない人だ・・・と、妙な方向に関心してしまいました。
そして、楷書体の翻刻とはいえ、読み下し文の意味が曖昧にしか分からないのが、自分でホンットにもどかしい・・・!
そんな状態で、しかも参考にした堀口先生の文章も割と難解だったので、毎度のことではありますが、内容の読み取り間違いもあるかと思います。もし何かお気付きの点がありましたら、(そっと)教えていただければ幸いです。
最後になりましたが、長文をお読みいただき、ありがとうございました!
参考文献
[1] 「三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山」 天野忠幸著 (ミネルヴァ書房 2014)
[2] 「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」(群書類従) 国立公文書館デジタルアーカイブ
[3] 「三好亭御成記」(続群書類従)
[4] 「洛中洛外屏風の建築的研究」堀口捨己著(『書院造りと数寄屋造りの研究』鹿島出版会 1978)
[5] 「室町時代政治儀礼における喫茶文化の受容について」橋本素子
[6] 群書解題第22巻 続群書類従完成会/編 続群書類従完成会 1966