『論集戦国大名と国集10 阿波三好氏』感想
三好氏というと、畿内に進出して一時は幕府をも圧倒した三好長慶が一番有名ですが、その本貫地は阿波です。
本貫地というのは、どんな人や一族にとっても特別なものかと思います。しかし、三好一族の盛衰を見ていると、阿波は単なる出身地というだけではなく、それ以上の何か不思議な力の源泉でもあるのでは……とも思えてくるのです。
三好之長は、畿内で大暴れ→負けて阿波でHP回復→畿内で大暴れ、を繰り返してますし。
三好元長も、阿波でHP回復→畿内で大暴れ→失脚して阿波でHP回復→畿内で大暴れ、の流れですし。
畿内(伏魔殿ダンジョン)で破れても、阿波に戻ればHP回復して、また再挑戦!というような、ゲームで言うところの戦闘不能になったときに戻る三好家のホームポイント的な何かなのではないかと。
ちなみに、三好長慶の時代には、技術革新の結果、戻らなくても祈ればHP回復する(呼べば実休さんたちがきてくれる)ようになったのだと思います。
そんな力の源泉はどんなものだったのか?さらに後年はその力はどうなってしまったのか?を研究者の先生方が論じたのが、この本。
『論集戦国大名と国衆 10 阿波三好氏』天野忠幸 編 岩田書院
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なんだか大変不真面目な記事の書き出しをしてしまいましたが(すみません)、この本自体はとても真面目な論集です。
阿波三好氏の通史ではないため、この本を読めば阿波三好氏の動向が通して詳しくわかる!というものではないです。
しかし、天野先生の総論に始まり、三好氏とは切っても切れない関係の阿波守護細川氏について、そしてその阿波守護だった細川持隆を下剋上した勝幡騒動について、勝幡騒動の張本人である三好実休について、織豊時代には最長老となった三好康長について、などなど、もうピンポイントで、非常に興味深い論考が並んでいます。
具体的な論考と執筆者は以下のとおりです。
総論 阿波三好氏の系譜と動向 天野忠幸
阿波国守護細川氏の動向と守護権力 山下知之
勝幡騒動以後の阿波三好氏権力について 新見明生
三好義賢雑考(上)(下) 若松和三郎
戦国末期畿内における一法華宗僧の動向 ー日珖『己行記』を中心にー 河内将芳
天正の法華騒動と軍記の視線 ー三好長治の「物語」をめぐってー 長谷川賢二
戦国末期讃岐国元吉城をめぐる動向 多田真弓
織豊政権と三好康長 ー信孝・秀次の養子入りをめぐってー 諏訪勝則
三好政権と東瀬戸内 天野忠幸
阿波藩家臣団の編成(一) ー国人衆の登用ー 山川浩實
戦国期吉野川デルタにおける勝瑞と港 山村亜紀
以下、備忘録を兼ねまして、特に印象に残った部分の感想です。
三好氏の儚さ
「総論 阿波三好氏の系譜と動向 天野忠幸」より
総論では、三好氏研究第一人者で編者である天野先生が、阿波三好氏の系譜と動向をまとめてくださっています。
「通史ではない」と上に書きましたが、この論考を読めば、阿波三好氏に関連した一通りの人物名と動向がわかります。
前半は、史料上での三好氏の初見である「三好式部少輔」から「安宅神五郎(実休の三男)」まで、また一門衆や主な家臣について個別に書かれており、後半は、阿波三好氏を中心とした周辺の動向について、細川氏阿波守護家との関係から三好家の成立、実休戦死後の篠原長房の主導、そして織田・豊臣政権下での動きが通して書かれています。
三好家は之長も元長も無念の最期を遂げていますし、長慶の代では兄弟、息子が次々と皆若くして亡くなっています。幸の薄さでは戦国時代通して中々のものだと思っていたのですが・・・
次世代も相当なものでした。
むしろ長慶時代に版図が広がっていた分、崩壊して失うものも大きく、後半の織田・豊臣政権下でその過程が淡々と綴られている文章は心にくるものがありました。
論文読んで切なくなるとは、我ながら驚きです。
長慶の勢力が一番拡大していた時代、三好家の版図は主に以下のようなものでした。
・畿内の大部分は三好本家(長慶)
・阿波と畿内の一部は阿波三好家(実休)
・淡路は安宅家(冬康)
・讃岐の一部と畿内の一部は十河家(一存)
この四兄弟が次々と亡くなってしまい、そこから三好家の衰退が始まるわけですが……
兄弟4人の次世代で養子のやり取りをしまくっているんですよね。長慶の跡継ぎを十河家から持ってきた結果、玉突きのようにご子息たちがやり取りされています。
三好本家
長慶 → 義興 早逝 → 義継(一存の子) 若江城で信長軍に攻められ自害
阿波三好家
実休 → 長治(実休長男) 細川真之(細川持隆の子)と対立し自害 → 存保(実休次男) 十河家より戻るが秀吉により十川孫六郎とされ、戸次川の戦いで戦死
安宅家
冬康 → 新太郎(冬康長男)早逝? → 新五郎(実休三男) 秀吉によって播磨へ領地替え
十河家
一存 → 存保(実休次男) 後に阿波三好家へ
上記のように、長慶後の次世代は、主に実休さんの子供たちがなんとか三好家を残そうと奮戦します。が、信長と秀吉の前に敵わず。
中でも一番切ないのは、実休さん次男の存保でしょうか。十河家に養子に出された後、阿波三好家の長治(実休長男)の自害後は阿波に戻り、阿波三好家を立て直そうとするのですが、結局は「三好」の名前を名乗ることも秀吉に許されず、「十川孫六郎」として九州の地で戦死してしまいます。無念すぎる。
実休さん三男の新五郎が養子入りした安宅家は、冬康さん長男の新太郎の時代に早々に対信長戦から離脱していたようですが、秀吉によって播磨へ領地替えされます。安宅といえば水軍、なのに内陸部へ移動です。その後はどうなったんでしょうね…
他にも、長慶時代からの重臣である三好康長が三好本家を継いで残そうと試みたりしていますが、存保と対立していたりと、「三好家」としての足並みが揃わず、結局、三好は消えてしまいます。
こうみると、長慶さんの存在というのは本当に大きかったんでしょうね。
元長さん敗死後の三好家がよく分裂せずに纏まったな、とも思いますが、当時は三好家自体がお家争いをするほど大きくなかったのもです。
よく見かける言葉ですが、もうちょっとだけ長慶さんが生きていてくれたら……と思わずにはいられません。切ない。
三好之長の台頭と奔放さ
「阿波国守護細川氏の動向と守護権力 山下知之」より
細川氏の阿波守護家に関しての論考ですが、阿波守護家の被官としての三好家がどういう経緯で台頭してきたのかが、とてもよくわかります。
阿波守護家の当主は、
満久 ー 持常 ー 成之(持常の甥) ー 政之 ー 義春(政之の弟) ー 澄元 ー 持隆 ー 真之
と続いていくのですが、政之が家臣団と揉めに揉めていたようでして。
細川讃州弥九郎諸篇無正体人也、被官人等相率、以別人可立一流由支度治定云々
「雅久宿彌記」文明11年(1479)8月11日条
被官人らに、あいつは器量が無いから別人を新当主にしよう、などと言われてしまっています。
さらに。
細川弥九郎讃岐守護迷心于若衆之間、構桟敷見物、此桟敷与楽屋相並云々、(中略)讃州弥九郎今日見物舞之若衆令同輿向桟敷、帰路同前云々
「晴富宿彌記」文明11年(1479)5月23日条
公家にも、若衆にご執心ですよ、と日記に残されてしまったりしています。
他にも、政之が所司代と揉めて阿波に下向したときに、一部の被官人は付いてこずに京都に残ったりと対立を深めた結果…
払暁有焼亡事、是細川兵部少輔被官新谷家也、此間彼被官東条・飯尾等、向背罷下阿州、其一党也、回禄之子細不知之
「十輪院内府記」文明17年(1485)7月16日条
細川政之被官である新谷氏の家が火事になり、そのときに東条氏と飯尾氏らの被官が阿波へ下向してしまった、つまり政之から離反してしまった、とされています。
この後、阿波では国人の反乱が起こり、細川家が一致団結して出陣していたりもしているのですが、これした状況の中で、三好氏が台頭してきた、ということです。
当時の三好氏の当主は、三好之長(長慶の曽祖父)。
之長さんは、京で大暴れしていたことで有名ですが、どんなことをしていたのかと言いますと。
高倉永継邸襲撃事件
或人告来云、細川兵部少輔被官五十人許、押寄新藤中納言永継宿所云々、今朝召取盗人之処、申可取返之由云々、雖為俄事、被官人等其外人々、走向相支、互放矢、暫細川九郎出人加制止、盗人落居之上者、不能左右事也、此事、恵命院永康親類之被官、相語新黄門召取也、不可説事也
「親長卿記」文明17年(1485)6月11日条
高倉永康親類の被官が永継(永康の父)を相語らって召し取った盗人を、三好之長らが取り返そうと襲撃した。細川政元が制止して、落着した。
三好氏徳政張本
払暁讃州被官三吉宿所江諸司代推寄揚時声、両度依徳政張本被加誅伐云々、一色、細川勢各発向云々、雖然三吉讃州在所ニ自去夜立籠云々、則軍勢直推寄処、徳政張本人事三吉一人、細川并備中守護被官等有之、各令生涯者、三吉事可致生涯之由自讃州申間、軍勢各先退散云々、重可伺時宣云々
「後法興院記」文明17年(1485)8月9日条
三好之長を「徳政張本」として、幕府所司代・一色氏・細川氏(京兆家)らが誅伐するために三好邸、ついで細川政之邸に押し寄せた。政之は、之長だけが張本ではない、他の者も同じように誅伐してこい、と言って、之長をかくまって擁護した。
讃州宿老と対立
讃州之内東条与吉見相論事出来、一家大儀出来、讃州可下向讃州之由、近日事也
「大乗院寺社雑事記」文明13年(1481)10月6日条
細川政之被官の東条氏と吉見(三好)氏で争論があった。
上記のように、軍事力のある三好之長と、東条氏や飯尾氏ら宿老と対立していた細川政之が結びつき、結果として三好氏が台頭してきたのではないか、とされています。
その後、之長さんは、両細川の乱の中で細川澄元軍として上洛し、さらに大暴れするのですが、その原点はここらにあったワケですね。
最初の総論で、三好一族の衰退を見ただけに、隆盛の起源を見ると、楽しそうでいいですね……という何とも言えない気分になってきます。
実休無双
阿波三好氏といえば、やはり実休さんです。実休さん関連の論考がいくつか続きます。
「勝幡騒動以後の阿波三好氏権力について 新見明生」より
三好実休は、兄の長慶の畿内進出を阿波守護の細川持隆と共に、後ろで支えていた……かと思いきや、勝幡騒動と言われる事件では、主君の細川持隆を討ち取ってしまいます。
この勝幡騒動、原因は諸説あるようですが、ここでは、長慶と細川晴元の対立が契機ではないか、とされています。
勝幡騒動までは、細川持隆と実休の関係は極めて良好でした。2人が、それぞれ同じ文面で禁制を発行したりしており、細川持隆の権威と実休の実力が相互補完の関係であった、ということですね。
が、天文17年(1548)に長慶が細川氏綱方につき、細川晴元との対立が決定的になると、細川持隆が畿内に出兵することがなくなります。結果、持隆と実休の関係も微妙なものになっていったのではないか、とされています。
しかし、持隆は、足利義維・細川晴元・三好元長が堺に進出した時に、元長をかばって晴元と揉めた挙句、阿波へ戻ったりしています。それでも、やはり晴元と長慶だったら、晴元支援なんでしょうかね……このあたりは、あまり掘り下げた論考が収録されておらず、とても気になるところです。
それはともかく。
勝幡騒動後、実休の舅である久米安芸守らが、主君を討ち取るのはけしからん、と攻めてくるのですが、これも制圧してしまい(ただし天野先生は総論の中で、これはあくまでも軍記物の記述であることを言われたうえで、こうしたことが起った可能性はある、とされています)、以後は、持隆の子である真之を阿波守護家当主として(一応)立て、阿波の主導権を握っていくことになります。
そして、最後には、幕府相伴衆となり、細川阿波守護家を超えていきます。
強い。
ちなみに、この実休に立てられた真之は、後に実休の息子である長治を討ち取ってしまいますので、まあ、因果は巡りますね……
「三好義賢雑考(上)(下) 若松和三郎」より
武力で細川持隆を討ち取った三好実休ですが、一方では、
・茶道の大恩人
・中世・近世の文化推進
・戦国三好一族の美的教養
を担っていた、という論考です。
武野紹鴎の弟子であり、紹鴎小茄子の茶入を千貫で買ったこと、千利休の後妻とその子である少庵を庇護していたこと、など、主に茶道においても、実休の功績が大きかった、という論考です。
戦も強いし、文化も強い。
それはそれとして、この論考の中でちょっと気になったのが、実休と長慶が不仲になったことがある、とされていることです。
「足利季世記」や「細川両家記」には、実休が出家したのは長慶と不仲になりその陳謝のため、と書かれているようですが、これは軍記物であるがための記述なのか、それとも本当に原因があったのか、気になるところです。
軍記物の見方
「天正の法華騒動と軍記の視線 ー三好長治の「物語」をめぐってー 長谷川賢二」より
「軍記物」というのは、歴史の流れを知る上では貴重な史料となり得ます。一方で、話として面白くわかりやすくするために、色々な誇張や創作が入っていることもあり、研究者の方にとっては扱いに注意が必要である、という話はよく見かけます。
この論考は、そうした軍記を見る時、記述者のフィルター、つまり個人の解釈や価値観、また意図といった主観や、時代背景・環境などを考慮しなければならない、ということを、三好長治を主人公とした法華騒動を主軸に置いて検討していく、というものです。
非常に興味深いです。
三好長治とは?
三好実休の嫡男。実休討ち死に後は、阿波三好家を継ぎます。
永禄の変後は、三好三人衆と協力して畿内で信長と戦いますが、天正元年より、信長との和睦を模索し続けます。その過程で、阿波三好家最大の功労者とも言える篠原長房を討ち取ることまでしますが、結局、和睦することは出来ず。最期は、父の三好実休が下剋上で討ち取った細川持隆の子、細川真之と対立して敗北し、自害します。
天正の法華騒動とは?
三好長治の阿波における唯一の治政として残っているのが、勝幡争論です。
軍記物の記述では、三好長治が法華宗(日蓮宗)に傾倒しすぎた挙句、阿波の領民を強制的に法華宗へ改宗させようとしたところ、真言宗などの他の諸派から反発があり、勝幡での宗論に及んだ、というものです。
宗論をしたのは、天正3年(1575)10月、堺の妙国寺の法華宗僧である日珖と、高野山ないしは根来寺の僧で、結果は真言宗などの反日蓮宗側の勝利だった、とされています。
この勝幡での争論を含む一連のゴタゴタを、論考では天正の法華騒動、としています。
では、実際のところはどうだったのか?
当事者の一人である日珖の日記が残っています。
一 九月末三井寺へ行、其刻阿州ヨリ問答ノ義注進、則堺へ下向ナリ(中略)六日ニ勝幡ニ付、(中略)、八日ニ三好彦次郎殿へ御礼在之、其間浄土宗与往復別紙在之
一 浄土宗事、法詰候而理運ノ感状ヲ取上、則高野ヨリ円正ト申学匠、阿州呼下当宗難状入之、三問三答如別紙、是又法詰理運之感状取候而十月六日ニ勝幡ヲ出、其夜フクラニ泊ル、明日スモトニ付、則安宅殿ニ御礼在之、又スモトニ於テ法談有之
一 七日ニスモトヲ出、其夜貝ツカニ泊ル、八日ニ入津、則九日ヨリ談義、阿州事於高座致披露弥打伏スル也
「己行記」天正3年(1575)条
・日珖は「問答ノ義注進」があったため、阿波へ赴いた。
・浄土宗に対して「法詰」した。つまり、勝利した。
・さらに高野山よりやってきた円正に対しても「法詰」した。
・宗論が終わるとすぐに阿波を出て、淡路を経由して帰った。
・談義の中で、阿波での勝利について報告した。
あくまでも、一方の側からの日記である、とした上ですが、騒動というほどのゴタゴタについての記述はなく、しかも法華宗側が勝利した、ということになっています。
さらに、同じく「己行記」には、日珖が実休とも昵懇で、そもそも阿波三好家は実休の時代から日蓮宗に傾倒していたことが書かれています。
そのため、たとえ日蓮宗を巡る騒動があったとしても、それが「長治が阿波一国規模に及ぶ改宗政策を行った」ためである、ということは確認できないとされています。
では何故、軍記物では「長治が主人公」で「大きな騒動」として長治の失政のように書かれているのか?
これについては、法華騒動が書かれた軍記物が誰によって書かれたのか、に着目することにより、その背景を読み取られています。
・「三好記」は、徳島藩家老長谷川貞恒の要請により執筆されたもので、「徳島藩のための」政道論としての色彩を帯び、反面教師として最後の当主と失政と滅亡が強調された。
・「昔阿波物語」の著者である道智(二木又五郎善治)は、元三好家臣で蜂須賀氏に仕えたことから、三好氏に対する否定的評価を強調した。
・「みよしき」の著者は不明であるが、昔阿波物語と同じく道智が関わっている可能性から、同上であると考えられる。
つまり、軍記物の中の三好長治は「滅びのシンボル」として描かれており、その長治を主人公とした法華騒動についても、そうした「フィルターのかかった長治」が起こした騒動として描かれていると考えるのが妥当、とされています。
法華騒動はあったかもしれないし、軍記の誇張かもしれない、ということですね。
最後の当主というだけで、必要以上にダメな所ばかりを強調されてしまった感のある長治さんは気の毒ですが……
この論考のように軍記物と史料を突き合わせることで見えてくる背景があり、また逆に軍記物と背景を突き合わせることで見えてくる史実もあるのかもしれません。
本当に興味深い論考でした。
以上、長々と書いてしまいましたが、私自身の備忘録の割合が大きいのでご容赦ください。
読んだことをまとめておかないと、すぐ忘れてしまうんですよね……
上記以外にも、日珖さんの日記に基づいた移動がものすごく分かりやすい図表で示されていたり、細川氏同族連合体についての検討があったり、三好康長さんが織田信孝や羽柴秀次を養子にしていたり、色々と新しい知見がありました。
しかし。
この論集が出たのが2012年で約10年前。
そろそろ、新しい阿波三好氏の通史みたいなものが出ないかなー……と密かに期待しています。