『細川頼之(人物叢書)』感想

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細川頼之は、足利義満がまだ若い頃、管領(執事)として義満を補佐し、名宰相として後世にも有名な人です。

有名な人、なんですが…

例によりまして、私がその名前を知ったのはつい最近でして。

『室町幕府全将軍・管領列伝』の中の数ページ、細川頼之の項を読んで「こんな人いるの…?」「頼之以降の全細川さんは頼之に感謝し続けるべき」というくらい、衝撃と感銘を受けたものでした。

 

そんな細川頼之、もっと詳しく知りたいと思って本を探しても、なかなか見つかりません。

おそらく、唯一といってもいいくらいの本がコチラ。

細川頼之 (人物叢書) 小川信著 吉川弘文館〔新装版〕1989

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新装版でも1989年出版という少し古い本ですが、元は1972年に出版されています。

その後の本が見つからないのは、既にこの時点で人物研究として完成されているのか、日が当たらないだけなのか、私が見つけられないだけなのか。三番目の確率が高そうではありますが…

一番目もあるんだろうなというくらい、細川頼之について出生から一族から軍事面から政治面、そして信仰と趣味まで、もう詳細に情報が詰まった本です。さすが人物叢書。

 

 

細川頼之の波乱に富んだ人生の中で、一番心惹かれるのは、二代将軍義詮がその死期を悟って頼之と幼い義満を枕元に呼び寄せて言ったと伝わる言葉です。

義詮は義満を指して頼之に「われ今汝のために一子を与えん」といい、次に頼之を指して義満に「汝のために一父を与えん。その教えに違ふことなかれ」と遺言したという(『細川管領家御系』等)。

 

この遺命を守り、頼之は幼年の義満を補佐し続け、そして義満も頼之を頼ります。

細川頼之の実子は早逝したらしく、その後子供には恵まれませんでした。しかも、頼之夫人は義満の乳母であった、とも伝わっており、事実であるなら早逝した子供は義満と同世代だったはずです。頼之夫妻にとっては義満はまさに子供のような存在、そして義満にとっても実父義詮から父指定された頼之と乳母の頼之夫人は両親のような存在だったのでは。

と、高速で想像(妄想)してしまいます。

 

それ以外にも、これでもか!というくらいドラマチックな人生の細川頼之。

読んでいると大河ドラマの主役いけるのでは?と思えて仕方がないので、以下、上記の本を元に大河ドラマになったら盛り上がりそうな部分を書き連ねてみようと思います。

あと、ざっくりした人生はタイムラインにまとめてみましたので、よろしければどうぞ。

 

 

 

 

観応の擾乱の中で父を失う

頼之が産まれたのは、元徳元年(1329)。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げる直前です。

11歳ごろから父の頼春と共に四国で南朝方と戦っており、観応の擾乱では父の頼春は概ね尊氏方だったのですが。

24歳の時、北畠顕能・楠木正儀ら南朝軍が和平を破って京都に攻め込んだ際、父頼春は洛中で討死してしまいます。

この時の頼春は、

『太平記』は、このとき頼春は手勢三百騎許りで六条大宮辺にひかえる和田・楠の三千余騎と激闘し、落馬してもなお敵二人を切り据えたが、鑓で突かれて命を断ったと述べ、『細川管領家御系』『地蔵院伝記』などには、敵の突入を聞くや、頼春は馬に鞍置かず鎧を着けず、白袷衣の姿で急遽馳せ向って士卒を指揮したが、股肱の士が四人場前に死し、頼春は単騎馳せ廻って戦い、四方より射られて四条大宮で討死した

と、壮絶な討死だったようです。

この報を聞いた頼之は阿波の兵を引き連れて、即上洛。南朝軍を京都から追い、弔い合戦を果たします。

義満を補佐した管領時代のイメージから、なんとなく文治に長けた官僚イメージのある頼之ですが、室町武士らしく若い頃から武もいけて、弔い合戦ともなれば熱く戦う。しかも舞台は観応の擾乱で、足利尊氏・直義兄弟というビックネームも登場しますし、ここはもう序盤のクライマックスになるはずです。

 

中国管領となる

父頼春の討死の前から四国で南朝軍と戦っていたのは前述のとおりですが、この時、阿波の南朝軍の中心だったのが小笠原頼清という人です。

阿波で小笠原と聞いてピンと来る方は多いと思いますが。

三好氏が祖先(としている)のが小笠原氏で、三好長慶ともしかしたらものすごく遠い繋がりがある(かもしれない)人が出てきます。この小笠原頼清、観応2年(1351)に頼之に敗北しています。貞治6年(1367)に小笠原氏を誘降する、とありますので、結構長い間、南朝方として敵対していたようです。

また、十河、安宅なんていう名前もチラリと出てきますので、私的にはここらでもテンション上がります。

 

と、三好フィルターは置いておきまして。

 

父頼春の代から阿波で戦っていた頼之ですが、頼春の弔い合戦後は、足利尊氏より中国管領(という名称であったかは不明です)として、中国地方の足利直冬軍の討伐を命じられます。

当時28歳だった頼之に大任が与えられたわけですが、この時、頼之は阿波に逃げ帰ろうとして従兄弟の細川清氏に止められています。

闕所の処分権を求めて容れられず不満表明のために阿波下向を企てたらしい、という伝聞記録(『園太歴』)があるようですが、後述の管領時代の行動原理はこんなところから……と思えるエピソードです。小川先生は、自軍の配下に闕所を恩賞として分配するためだったに違いない、ととても好意的な見方をされています。

ひと悶着ありつつも中国地方へ向かい、安芸までを平定して「中国大将」「中国管領」とも呼ばれ、見事大任を果たします。有能。

 

従兄弟・細川清氏の討伐

頼之には、細川清氏という従兄弟がいます。

細川氏は、尊氏に従った頼春(頼之父)や和氏(頼之叔父)の系統、直義に従った顕氏(父の従兄弟)の系統など、分裂してもおかしくないくらい既に庶家が多かったのですが、当初、ツートップの位置にあったのが和氏と顕氏です。が、和氏は早々に隠遁して亡くなってしまい、頼之父の頼春が顕氏に次ぐ勢力となっていました。

頼之自身にも兄弟が多くて、しかも似た名前が多くて、本当にややこしいんですが…

以前に作った系図に書き加えるとこんな感じです。(一部省略しています)

 

頼之の代では従兄弟の清氏(和氏の子・頼之従兄弟)が先に二代将軍足利義詮の執事(管領)となっていました。

この清氏、幼少の頃に父親の和氏を亡くし、その後和氏の所領は頼春が引き継いだようですので、もしかしたら若い頃から頼之と友情なんてあったかもしれません。

執事になった後も自ら出陣するなど相当に武張った人物だったようですが、東寺の宝蔵の扉の鍵が無いと聞くと扉ごとぶっ壊したりと、よくいえば豪快、悪く言えばノーキn…

結果、政敵を作りまくり、言いがかりを付けられて失脚してしまいます。

当時、北朝側で失脚した人は南朝に奔るという通例があった(?)のですが、清氏も例に漏れず南朝に奔り一時京を占拠します。

が、すぐに取り返され、阿波から讃岐へ落ち延びます。

この清氏の討伐命令が下ったのが、同族の頼之でした。

ここで清氏には淡路の細川氏春や前述の小笠原頼清が加わり五千余騎だったのに対し、頼之は備前・備中の数千騎という劣勢ながら、戦略・戦術を駆使して清氏を討ち取ります。

友情があったかもしれない同族の従兄弟を、劣勢ながら打ち破る。前半のクライマックスじゃないでしょうか。

 

その後、頼之は中国を離れて四国管領となり、兄弟や一族を配置しながら四国を攻略し、一時は四国を全域支配するに至ります。超有能。

 

管領としての苦悩

危篤となった二代将軍義詮に呼び出され、義満の補佐と管領職を託されるというのは冒頭に書いたとおりで、もうここは、ドラマの中で一番のクライマックスです。

『太平記』は、この頼之の管領就任を以て「これで世の中は太平になるだろう。めでたしめでたし。」で結ばれているのですが。

現実は全く「めでたしめでたし」とは程遠く。

 

感動のクライマックスを経て管領となった頼之は諸々の政策を打ち出しますが、ことごとくと言えるほど諸将や周囲の反撥にあいます。

例えば……

・南朝の楠木正儀を誘降する → 怒った南朝軍が執拗に攻めてくる → 討伐を諸将に命じるも、楠木正儀に対する反感と頼之の権勢に対する反感とで命令をきかない

・後光厳天皇が譲位したいと言ってくる → 叡慮に従うと返答する → 崇高上皇が待ったをかけて、義満准母の渋川幸子に働きかける → 光厳上皇の違勅をもって反対意見を封じる → 崇高上皇側の人々から恨まれる

・寺社の造営に力を入れる → 頼之が敬慕した夢窓疎石の姉妹の子である春屋妙葩が建議し南禅寺の楼門も造営することになる → 南禅寺と仲の悪かった叡山の宗徒が春屋妙葩らの配流と楼門破却を訴える → 朝廷・山名・赤松・佐々木は叡山の意見を聞こうとするが頼之は断固として阻止 → 宗徒は神輿を内裏の門前に置いて退散 → 制しきれなくなり楼門の撤去を決定 → 南禅寺はじめ京都五山の僧が怒って一斉に引退 → 春屋妙葩と和解しようとするも拒否される

 

全体的に別に頼之は悪くないと言いますか……最後なんて完全に僧門同士の喧嘩に巻き込まれた挙句に敬慕していた春屋妙葩に恨まれるという。何これイジメ?というくらい困難だらけです。

 

そんな困難な中でも、義満の権威向上を第一に考え続けます。倹約令を出しながら義満の元服や出仕始だけは盛大に執り行い、室町御所を造営し、義満の官位昇進を計ります。

自身は従四位下武蔵守でそれ以上を望まなかった、というのも非常にポイント高い。

 

 

弘暦の政変

ほぼ全方面から反撥にあっていたのでは……というくらい苦悩しつつ、それでも管領として政務を取り続ける頼之。

さすがに納得がいかないのか、もしくはもう無理…となったのか、何度も辞意を表明します。ですが、その度に義満に慰留されます。

この何度も辞意を表明して(遁世すると言い出して)将軍に慰留される、というのは、後の細川家の誰かと時の将軍を彷彿とさせる出来事で、血筋か…と思わなくもないのですが。

頼之の後の管領である斯波義将も辞意を表明して同じように義満に慰留されていることもあり、当時の一般的な不満表明方法のようです。ただ斯波義将の場合、再度辞意を表明したらそのまま慰留されずに失脚するという、これまた後の10番目くらいの将軍のようなことにもなっていますので、ご利用は計画的に、というところでしょうか。

 

ともかく。

辞意を表明しても事態は全く好転せず、追い打ちをかけるかのように、

・頼之を管領に推した佐々木道誉、赤松則祐が相次いで亡くなる

・頼之の推薦で九州探題となった今川了俊が失策をする

・一族が紀伊で南朝方に敗退する

・その紀伊で反頼之派の山名氏が勝ってしまう

などなど、むしろ悪化していきます。

 

そしてついに、弘暦の政変が起こります。

きっかけは、大和の国人十市氏を討つために、義満が斯波義将、土岐頼康らの軍勢を発向させたことに始まります。

斯波義将はそもそも頼之の先代の管領で、対立した佐々木道誉が頼之を推したことから反頼之の筆頭。しかも越中の所領をめぐっても揉めてます。

土岐頼康は伊勢守護をめぐって頼之に早くから反撥。

こんな人達に軍勢を集めさせたので、そのまま頼之を討つのでは?と緊張が高まり、頼之はまたも四国へ下ろうとしますが、義満に諭されて踏みとどまります。また義満が諸将を諌めたり罰したりして、一旦は落ち着いたかに見えたのですが……

すぐに京極高秀が土岐頼康に同調して近江で挙兵。義満は軍勢を派遣してこれを収めます。ついでに鎌倉公方まで挙兵しようとしたりして、もうバタバタです。

斯波義将は京極高秀と土岐頼康の放免を訴えて義満がこれを受け入れたため、頼之がまた四国に下ろうとして義満に遺留され。

しかしついに、諸将が上洛して、義満のいる室町御所を取り囲み、頼之の追放を迫りました。いわゆる御所巻というやつです。

ここに至り、義満も頼之を守りきれなくなり、頼之に京都退去の命令を下しました。

 

頼之は、細川一族・被官の三百余騎を伴って四国へ下りました。

この時に頼之が残したと言われる漢詩があります。

人生五十愧無功 (人生五十功なきを愧づ)

花木春過夏己中 (花木春過ぎて夏すでになかば)

満室蒼蠅掃難尽 (満室の蒼蠅掃へども尽し難し)

去尋禅榻臥清風 (去りて禅榻を尋ね清風に臥せん)

 

無力感と悔しさと、それでも清々したわ!というようなサッパリ感も伝わってくるような…もうこの時の思いの丈をぶつけました!というような言葉です。

こうして見ると、頼之は真面目で頑固で有能でちょっと感情的で、でも割り切りも良かったりと、すごく男前な性格だったのでは、と思わずにいられません。

 

 

追討軍を返り討ち

上記では、細川一族・被官を伴って四国へ下った、とサラリと書きましたが、これ実は結構すごいことだと思います。

前述の細川清氏失脚の際、細川一族は割れて、結果として清氏は頼之に討ち取られています。

しかし頼之が失脚した時には、誰も離反していないんです。

おそらく、管領一族ということでまとめて目の敵にされていたこともあるとは思いますが、頼之が一族に分国を分け与えて十分に結束を図っていたこともあったと思います。

しかも。

頼之は、この時代の通例である「失脚したら南朝に奔る」をしませんでした。

すぐに頼之討伐の令が出されるのですが、命令を受けた河野直道を逆に奇襲して討ち取っています。その後の討伐軍も、義満が乗り気でなかったこともあり、また四国へ渡るという物理的な距離もあったと思いますが、結局、命令を受けたものの軍勢を発向させることもなく。

降りかかる火の粉は払って、後は悠々ともいった感じで四国経営を進めます。カッコ良すぎる。

ちなみに頼之の弟で猶子となっていた頼基(頼元)は、討伐軍が不調に終わった後早々に放免され、京へ戻っています。

 

 

義満の厳島参詣

弘暦の政変から約10年後。

義満が九州への示威行為を兼ねて、厳島参詣を行います。

この船を用意したのが頼之です。頼之の準備した約100隻もの船で諸将を引き連れた義満は、立ち寄った四国で頼之と涙の対面を果たします。

 

10年前は御所巻に屈して頼之を追放した義満ですが。

この10年で御所巻なんてされないくらいの力を着け、父親代わりの頼之に会いに来るわけですよ。

頼之も及ぶ限りの接待をして迎えるわけですよ。

 

そして、頼之も共に厳島参詣し、帰りにもまた四国に立ち寄って二人だけで語り合ったのです。

もう……ここが終盤のクライマックスでなくて何なのか。

実際には、斯波氏・一色氏・山名氏あたりの力を削ぎたいなーとか色々あったんだろうとは思いますが、それはそれとして、ドラマとしては名場面にしかならないはず。

 

 

政界復帰と最期

実際、義満の厳島参詣の約一年後、頼之は山名氏討伐の主将として復帰を果たします。

もう62歳という高齢でしたが、一族を率いて備後に出陣し、見事勝利します。

この出陣に先立って、頼之は備後守護に任命されるのですが、頼之としては弟の頼有を備後守護に任命してほしかったらしく、頼有に対して「不本意だけど仕方ない。義満様は言い出したら聞かないから…でも頑張るわ。」なんていう義満の性格を把握した上での愚痴っぽい手紙も残していたりして、人間味溢れていてそれもまた良し!です。

 

備後での勝利後、ついに入京します。

頼之の弟で猶子の頼元が管領となり頼之はその後見となりますが、頼之が政務をとることもあったようです。

頼之の最後の戦いは、さきに追討した山名氏の別の一族が謀反し、京へ襲撃してきた戦いです。頼之はまた自ら前線に布陣し、諸将とともにこれを退けました。

さらに山名氏は当時の通例に従い南朝に奔って明徳の乱を起こしますが、幕府軍はこれを鎮圧。同時に南朝の勢力も大きく削られます。

 

長年の懸案であった南北朝統一の道筋がようやく見えたところで安堵したのか…

頼之は風邪をひいて体調を崩し、そのまま卒去しました。享年64歳。

 

数カ月後、南北朝統一がなされました。

 

 


以上。

盛り上がりそうな部分を書こうとしたら、ほぼ頼之の人生を書いてしまいました。

それくらいクライマックス連続の人生だった細川頼之。

室町幕府の最盛期を築いた義満を補佐し、以後の細川氏の強固な一族体制の始まりとなった人です。

動乱の世の中で有能ぶりを遺憾なく発揮し、押し上げられるように管領となり、足利義満というビックネームを支えて盾ともなって苦労し、一度は失脚し、でも自分が支えた幼かった義満が成長して迎えにきて復帰。最期の仕事を果たして、世の中は本当に平和になる……

大河ドラマ、いけませんかね…?

あ。ちなみに、妻は一人で側室も見当たりません。

いけるんじゃないかな?

大河ドラマ化希望のイチオシは三好長慶なんですが、次で!細川頼之も強く推していきたいと思います。

 

 

長文を読んでいただき、ありがとうございました。

 

最後に、上記の内容は冒頭に書いたとおり、1972年当時の本の内容に即したものです。更に研究や議論が進んでいて、今は異なった説となっている部分もあるかと思います。そんな箇所がありましたら、そっと教えていただけると幸いです。

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