『日記で読む日本中世史』感想

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日記を書く習慣のある人って今はどのくらいいるんでしょう?

私自身は飽きっぽい性格のため、数ヶ月書いてはしばらく空いて、また思い出したように書き始めて…ということを繰り返しています。(最近、iPadとApple Pencilを手に入れてからは、ちょっと続いていますが。)

そんなワケで、日記に限らずですが「何かを継続できる人」というのは、もうそれだけで尊敬の対象です。

 

日本人というのは日記が好きな民族のようで、十世紀ごろから誰かが常に日記を書き記していて、しかもその日記が何百年も残って、当時の政治の動き、文化、庶民の暮らしぶりなどを伝える貴重な史料となっています。

実際、歴史の本を読んでいると、参考史料として当時の人々が書いた日記が引かれていることがとても多いです。

『言継卿記』のように名前だけは知っていたものもあれば、全く知らなかったけど何度も出てくるのでなんとなく名前を覚えた、というものもあります。とは言え、何度も出てくると、この日記は誰が書いたんだろう?他に何が書かれているんだろう?と気になってきたりもしまして…

以前にも少し書きましたが、よく引かれる『言継卿記』では、記主の山科言継さんが困っている部分ばかりが目について、山科言継さん自身について書かれた本を読んだりもしました。そして、何十年も日記を書き続けていたことにまず感嘆していました。

そんな感じで、記録として残っている日記について気になっていたところ、図書館で面白そうな本を見つけて借りてみました。

 

『日記で読む日本中世史』 元木 泰雄, 松薗 斉 ミネルヴァ書房 (2011/11/20)

 

この本、おそらくですが、歴史を学び始めた大学1年生か2年生くらいの人が読むのにちょうどいい本だと思います。

平安時代末期から戦国時代末期までに書かれた代表的な日記について、

・日記名

・作者はどんな人か

・いつからいつまでの分が現存しているのか

・今はどこに残っていて、どの場所やどの本を見れば調べられるのか

・どんな特徴の内容か

の情報をキッチリと書いて紹介してくれています。

 

また巻末には、本の中で取り上げていないものも含めて、中世に書かれた主要な日記の一覧が表になっています。本を返す前にメモを!ということで、Web上でグラフにまとめ直してみました。

中世の主な日記年表

グラフにしてみると、「名月記」「園太暦」「実隆公記」「言継卿記」なんていうよく見かける日記は、やはり長い期間書き続けられていて、それだけ時代の移り変わりが記録されているんだろうなあ、なんて思ったりもします。

 

序章では「中世の日記とは」といった内容で、日記と言っても今の私たちが考える日記とは微妙に性質が違うんだよ、ということを入門編的にまとめてくださっています。

・初めは具注暦というカレンダーのようなものの余白に書き始めたこと

・個人の日記というよりは公の業務記録といった性質だったこと

・徐々に、先例の知識を子孫に伝えることで「家」としての付加価値を高めていくための貴族の武器のようなものとなったこと

などなど、何故当時の人が日記を書き記し続けたのか、それはどんなものだったのか、を概要的に知ることができます。

 

一章からは、代表的な個別の日記の紹介となるのですが。

公に誰かに見せたり子孫に残したりするために書くにしては、プライベートの出来事(かなり赤裸々なビーでエルなお話とか)や感想(世の中が乱れているのはアイツのせいだ!なんていう率直すぎる批判)なんかがバンバン書かれている日記もあったりしまして。

何故…何故そんなことを人に読ませる予定の日記に書いてしまうのか。

一体、当時の公私の別という概念はどうなっていたのか。そんなもの無かったのか。

と、今と当時の感覚の違いに多いに戸惑う一方。

憧れや羨ましいという想いを素直に書いた上で、そんな風に思っていることを人に知られるのが恥ずかしい、なんていう微笑ましい感情が書かれている日記もあって、これはまだ分かる!と共感できることにホッとしたり。でもよく考えたら、人に知られるのが恥ずかしいと言いながら、人に見せる日記に書いているんですが。

かと思うと、公のことはこの日記、私のことはこちらの日記、と区別を分けて記録している人もいまして、まあ一概に「当時の人々の感覚」なんて一括にまとめられないよなあ、と思った次第です。

こんな感じで、通して読むとそれぞれの記主の個性がこれでもか!と現れているのがよく分かって、ホンットに面白いです。

 

本には、16の日記が紹介されているのですが、それぞれ印象深い点だけサックリと箇条書きでまとめておきます。

 


「中右記」 藤原宗忠 平安時代

寛治元年(1087)26歳 ~ 保延4年(1138)77歳 約52年間

・天皇や皇族から一般官人、僧、女人まで、出会った人の氏名、出自、年齢、人物評が非常に多く書かれている。

・堀河天皇こそが理想の君主として褒めちぎっている。

・白河法皇については、一応褒めつつも堀河天皇に比べて明らかにテンションが低い。

 

「台記」 藤原頼長 平安時代

保延2年(1136)17歳 ~ 同3年(1137)18歳、同5年(1139)20歳、康治元年(1142)23歳 ~ 久寿2年(1155) 36歳

・左大臣という貴族でありながら、保元の乱で戦傷死した稀有な人。

・「愚管抄」(慈円)には、「腹悪しく万事に際どい」と酷評されつつも「日本第一の大学生」という評価もされる知識人。

・子孫への教科書とも言うべき日記に赤裸々なビーでエルな記述を残してしまった。

・漢学には通じていたが、日本の歴史や故事、和歌には疎く、息子に謀反人と同じ名前をつけようとして父親に怒られる。

 

「兵範記」 平信範 平安時代

天承2年(1132)21歳 ~ 元暦元年(1184) 73歳 約52年間

・鳥羽院、後白河院の院司を務め、さらに藤原忠実、忠通兄弟の家司も務める、多くの人から信頼された有能な人。

・家に伝わる日記を書写するなどして故実を情報として管理しまとめた。

 

「玉葉」 九条兼実 源平内乱期

長寛2年(1164)16歳 ~ 建仁3年(1203)55歳 約40年間

・藤原頼通の子。後鳥羽院の摂政となるも、娘の入内では源頼朝と潜在的に対立する。

・源頼朝に対する評価が、頼朝を知るにつれて、そして情勢に応じてクルリと180度変わる。

平治の乱以前は「謀反人である源義朝の子」

2年後には「ただ頼むところは頼朝の上洛」

その2ヶ月後には「木曽義仲とは違う!成敗は文明であり理非は断決である。」

 

「明月記」 藤原定家 鎌倉前期

治承年間(1177~81)ごろ ~ 80歳で亡くなる直前まで

現存は、治承4年(1180)19歳 ~ 嘉禎元年(1235)74歳 約56年間

・後鳥羽上皇、源実朝の時代から承久の乱まで、今話題の時代がスッポリ入っている。

・「明月記」に限らず、家業として一家総出で記録類を書写し、子孫に伝えた。

・「定家様」という独特の文字であるが、本人は「鬼のよう」「悪筆」として恥じていた。

 

「民経記」 藤原経光 鎌倉中期

現存は、嘉禄2年(1226)15歳 ~ 文永9年(1272)61歳 約47年間

・原本が多く残っているため、当時の日記の形態を良く知ることができる。

・大まかなことは具注暦(カレンダーのようなもの)に書き、詳細がある場合は日次記(別紙)にかき分ける。

・公私も分けて書く。公事は日次記に詳しく書き、私事は暦記に書く。しかし、私事に対する情緒が溢れると暦記の裏にも書く。

 

「花園天皇日記」 花園天皇 鎌倉後期

延慶3年(1310)14歳 ~ 元弘2年(1132)36歳 23年分

・ほぼ全て直筆が現存している。

・子孫に「誡太子書」を書き残すなど「賢王」「道学者」のイメージがある。

・対立する後醍醐天皇や大覚寺統など、自身に対抗する人については、何度も言及している。

・イメージとは裏腹に、君臣関係に悩んでいる姿も読み取れる。

 

「園太暦」 洞院公賢 南北朝期

現存は、応長元年(1311)21歳、康永3年(1344)54歳 ~ 延文5年(1360)70歳 約26年間

・南朝からも北朝からも頼られた人だが、残念ながら後醍醐天皇治世の時代の日記は失われている。

・自分が出席していない公事についても親族などから情報を集め、「家記」としての日記を作成しようとしている。

・観応の擾乱期に南朝方の公家として動いているが、本人は両統迭立の時代に戻ることを望んでいた。

・三種の神器も天皇・上皇も南朝に奪われ完全に目論見が外れたことについて、何も感想を書いていないのが、逆に痛ましい。

 

「満載准后日記」 満済 室町時代

現存は、応永18年(1411)、応永20年(1413) ~ 永享7年(1435) 約23年分

・足利義満の猶子であり、義持・義教や後小松天皇・後花園天皇の護持僧を務め、多方面から信任を得て国政に深く関与した。

・足利義教をクジで選出する際、幕府中枢の重臣たちの苦悩が書き残されている。

・後花園天皇の践祚に向けてのスリリングな計画も大枠が書き残されている。

 

「看聞日記」 伏見宮貞成親王 室町時代

応永23年(1416) ~ 文安5年(1448) 約33年間(途中8年分は欠失)

・他の日記と異なり、公事や儀式についての記述はほとんど無く、まさに日常を書き記した日記。

・兄の突然の死、その兄の死後産まれた子供が女の子だったことという偶然が重なり家長となる。

・さらにタイミングが重なり息子が天皇となり、自身は太上天皇となる。

・自分自身は天皇とはならなかったが、持明院統の伝統を受け継ぐ「日記の家」の家長としてのプライドが見られる。

 

「蔭凉軒日録」 蔭凉軒歴代 室町時代

季瓊真蘂 永享7年(1435)~ 嘉吉元年(1441)、長禄2年(1458)~ 文正元年(1466) 約14年間

亀泉集證 文明16年(1484)~ 明応2年(1493) 約9年分

継之景俊 天文22年(1552)~ 元亀3年(1572) 約20年分

・将軍との接触が厚く、外交も務めたため、明・朝鮮への外交使派遣の貴重な史料。

・遣明船派遣を巡る細川氏と大内氏の争いも詳しく書かれている。

 

「親長卿記」 甘露寺親長 室町時代

現存は、文明2年(1470)47歳 ~ 明応7年(1498)75歳 約28年間

・後土御門天皇から厚く信頼される。寿桂尼のお祖父さん。

・応仁の乱で幕府が衰えた結果、伊勢神宮が式年遷宮出来ないままに兵火で燃える、即位式・大嘗会ができない、譲位ができない、など、朝廷も財政面で大きな影響を受けている。

・譲位を望む後土御門天皇をなんとか宥める、その話術が見事。

 

「大乗院寺社雑事記」 尋尊 室町時代

宝徳2年(1450)~ 永正5年(1508) 約50年分(途中8年分は欠失)

・前任者の経覚の借金問題や、門主の地位など、経覚との関係でかなり苦労している。

・後継者も次々と若くして亡くなり、資格のある摂関経験者の息子もおらず、苦労している。

 

「正基公旅引付」 九条政基 戦国期

文亀元年(1501)57歳 ~ 永正元年(1504)60歳 約4年分

・細川澄之のお父さん。

・和泉国に下向した時の記録だが、その原因が「家僕を殺害して天皇から勅勘を被ったため」という貴族にあるまじき理由。

・67歳の時には、息子で関白の尚経と合戦を起こす、という、これまた貴族とは?という行動力。

・窃盗を働いた悪僧を処刑した、と日記に書きつつ、実はこっそり助命していたりする。しかし、先例を作れないので、日記には嘘(建前)を書いている。

 

「言継卿記」 山科言継 戦国期

大永7年(1527)21歳 ~ 天正4年(1576)70歳 約50年間

・1200人以上の人名が記されている。

・禁裏小番の無い日でもこまめに禁裏へ行き、用がなくても女房たちの所へ行って、情報収集に務めていた。

・庶民の生活や話題も多い。

・甘露寺家の下男と山科家の下女の夫婦の夫婦喧嘩が、幕府奉行人と曼殊院門跡まで出張ってくるまでに発展するという室町時代特有の事件も書かれている。

 

「駒井日記」 駒井重勝 戦国期

文禄2年(1593) ~ 同4年 約2年間

・秀頼が産まれてから、秀次が切腹するまでの期間、豊臣秀次の右筆を務めた。

・秀吉と秀次がどういう関係だったのかが読み取れる。

・ほとんどがお互いの奉行を通じたやり取りであり、秀次は関白といえども、秀吉の命を受けた奉行の指示に従う存在だった。

 


以上!

何十年も書かれた日記の中から話題を抽出して書かれた本から、更に私が抽出した箇条書きですので、あくまでも日記の極々一部の特徴としてお読みいただければ幸いです。

 

それぞれの日記を詳しく読むことができれば、きっともっと当時の人々の考え方や感じ方がわかって面白いのでしょうが……字体も、文語と口語の文法も違うというハードルはなかなかに高いです。

もうその辺りは専門の方々にお任せをしまして。

何十年間も記録を残してくれた方々のおかげで、研究者の方々が研究をし、そして私たちがそれを読んで色々と知ったり楽しんだり出来ているわけでして、書き残してくれてありがとうございます!と感謝しておきたいと思います。

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