『大飢饉、室町社会を襲う!』感想
以前に『喧嘩両成敗の誕生』という本を読んだところ、とても面白くて、著者の清水克行先生のお名前を記憶していました。で、たまたま同じ清水先生の書かれた本を見つけたので読んでみましたら、これまた本当に面白くて、一気に読んでしまいました。
『大飢饉、室町社会を襲う! 』(歴史文化ライブラリー) 清水 克行 吉川弘文館 (2008/6/1)
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室町時代の飢饉というと、応仁の乱の数年前に起こった「寛正の飢饉」が少し有名かもしれません。飢饉をよそに御所造営を続ける足利義政に対して、後花園天皇が漢詩を贈って諌めた、というエピソードが語られる飢饉です。このエピソードが事実がどうかは少し留保が必要なようですが…
それはともかくとして。
この本で書かれているのは「寛正の飢饉」の約40年前に起こった「応永の飢饉」についてです。
応永の飢饉が起こった頃は、足利義持の時代。その数年前に「応永の外寇」が起こっています。
本では、冒頭で「飢饉の前後の出来事をドキュメンタリー風に書いた」と書かれているように、この応永の外寇に始まり、人々の生死に対する価値観、当時の気候状況、足利義持の行った対応政策、人々の行動がおおよそ時系列で書かれています。
現代でも何か災害が起こると、自然の脅威に加えて人災という側面がクローズアップされることはままありますが。
この本においても、直接的な飢饉の原因は気候状況なんですが、被害が大きくなってしまった原因を社会状況、経済の動き、政策など人災の面からもドキュメンタリーで綴る、という流れになっています。
この本が面白いし素晴らしいなと思うのは、単に「為政者が悪い、全く対応出来ていなかった、人も自分の損得勘定だけで動いていた、だから駄目なんだ」で終わっていない、というところです。
『喧嘩両成敗の誕生』でも感じたのですが、清水先生は「当時の価値観」をできる限り尊重して、その時代の人々の目から行動原理を説明されようとしているように思います。
例えば、当時の為政者は飢饉に対して全く効果のない徳政や祈祷をしているだけだった、と言いつつも、その徳政に至る経緯や信仰に対する意識の重さを、最初の応永の外寇から伏線を張って説明をされています。特に信仰の面に関しては、今の私たちからはなかなか実感がしにくいものですが、前後の事例を具体的に説明されているため、共感までは難しくとも、こう感じる人ならこう動くだろう、というのが想像できるようになっています。
そのため、今の私たちから見れば、ああ…これは被害拡大するわ……と思っても、読後感としては、いやでも当時は当時なりに対応していたんだという優しい気持ちになれるといいますか、人の限界を感じて少し無常観に浸ってしまうといいますか……
一言でまとめますと。
応永の飢饉に焦点を当てて当時の人々の価値観にせまりつつ、為政者(主に足利義持)を一冊丸々を通じてフォローしてるような本です。
面白いですよ。
以下、特に印象に残った点についてまとめておきます。
「応永の外寇」に見る当時の論理
応永26年(1419)、突然、対馬を朝鮮王朝軍が襲います。
突然とは言っても、対馬が朝鮮を悩ませていた倭寇の本拠地であったという前後関係があるのですが。
襲撃自体は、対馬を治めていた宋氏によって被害を出しつつも撃退され、対馬内部だけで決着しています。
この事件、面白いのが、京都に伝わる過程でドンドン尾びれがついて話が大きくなり、情報が錯綜しまくっているところです。
例えば。
『満載准后日記』に書かれた少弐氏からの報告
・実際には227隻の船団だったのが、500隻以上とされる
・対応した宋氏を「わたくし(少弐氏)の代官」としている
・この度の「高麗国」の襲撃は先鋒に過ぎず、本体は「唐船」2万隻が来るはずだったが、台風によって海に沈んだ
・菅原道真公の霊魂が現れて、いろいろな奇蹟をおこしてくれた
「対馬が襲撃された」以外の全てが誤情報となっております。
話が膨らみまくった挙句に元寇と神風再び!となっているところが、もう当時いかに元寇の恐怖と乗り切った安堵感が生々し伝わってトラウマのようになっていたかが感じられます。
さらに別の日記では。
『看聞日記』に書かれた様々な噂
・出雲大社が「振動・流血」した
・広田社から神々が数十騎の軍兵に姿を変え出撃した
・北野天満宮から菅原道真の霊が飛び立っていった
・「唐人」の上陸地点は「薩摩」である
・海上に浮かぶ兵船は「8万余騎」で、主力は「蒙古」である
・少弐・大友・菊池などの奮戦で攻めてきた2万5千隻は打ち破られ、残りも大風で沈んだ
こちらは正式な報告ではなく、噂を書き記したものだと思いますので、更に情報が錯綜しまくっています。
神社での怪異や、実際の戦闘で神々が戦ったという日記はこの後も続いており、元寇に続く「奇蹟の大勝利」で「神々に守られている日本スゴイ!」と本当に純粋に喜んでいる姿が書き記されています。
ここまで大喜びしていると、実際には犠牲を出して戦った宋氏が気の毒になってきますが…
さらに二年後の看聞日記には以下のように書かれています。
・伏見御所(貞成親王の御所)に伊勢神宮の宮人と名乗る男が現れて「2年前の蒙古襲来で滅亡した蒙古人が怨霊となり、さらに疫病となって万人が死亡するだろう」と伝えた
貞成親王もさすがにこれは怪しんで信じたわけではないようなのですが、実際にこの後、飢饉からの疫病が大流行します。
清水先生はこの一連の流れから、単に情報の錯綜具合だけでなく、神社側の侵略者に対する神の霊力のプロパガンダを読み取られています。つまりもっと神々を崇敬しなさい、より直接的に言えば神社に恩賞を与えなさい、ということですね。
えらく即物的というか俗世的な気もしますが。
完全に信じずとも、こうしたプロパガンダが広がる余地が十分にあった、という当時の価値観がよくわかると思います。
「応永の平和」に見る経済の流れ
足利義持の治世は、先代の義満の頃に南北朝統一がなされ、大きな大名の反乱もなく「応永の平和」とよぶ研究者もいるほど、つかの間の平和な時代でした。この時期は、荘園を死守しようとする公家・寺社とそれを横領しようとする武家のパワーバランスが一時的に奇蹟のバランスを保った、と書かれています。
平和なのはいいんですが…
京周辺の領民にとっては、荘園領主に対する負担とは別に守護に対しても「公方役」が課されることになり、領民がダブルパンチで追い詰められていた実体を史料から紹介されています。
ある注進状では「公方役」を「公方厄」と(おそらくわざと)書いているものもあるほどで、領民にとっては相当の負担だったんでしょうね。
この「公方役」、実際にはどんなものだったのかと言えば、国内の守護関連施設での夫役や京都まで物資を運ぶ夫役など、人足としての労働が課せられるものでした。
ただ時代とともに、実際に人を出して労働することもあれば、代銭納することもあったようです。
代銭納の場合は京周辺で人を雇うわけですが、言い換えれば京周辺には人足としての労働需要があったわけです。
結局、京周辺には人が集まり、人が集まるところの物価は高騰するということで、京と地方の米価はおよそ1.7倍もの差があったことを史料からデータ化されています。
もうここに飢饉に至る悪循環の端緒が見られるんですが……
夫役を代銭納化する → 京に人が集まる → 京の物価が高騰する → 京に米を持っていって売る → 生産地が飢える
という平和になったはずなのに飢えるという不思議なパラドクスが生じています。
さらに後には、飢饉がおこった後で飢えた地方の人々が物資のある京を目指し、そこで疫病がおこる、という被害拡大につながってしまっています。
これはもう人災と言えば人災なんですが、当時の政治や経済の仕組みを考えると、ものすごいタイミングで飢饉が起こり、そこから疫病に繋がるという、単純ではない複合的な原因があったことがよくわかります。
「徳政」に見る価値観
足利義持は、当時4回も禁酒令を出しています。
最初は寺社に対して「お酒飲んじゃ駄目ですよ」というもので、寺社のほうもそれほど深刻に捉えていなかったようですが、義持はどうやらとても真剣にこの禁酒令を出していたようで。
2回目は嵯峨の宝幢寺の落成式の際に嵯峨全体に、3回目は禅宗全般に対して、4回目は自分の身内に対して、時には起請文まで出させる徹底ぶりで出されています。
4回目は、禁酒令というよりは嫡子の義量とその側近に対してで、禁酒令というほどのものではない気もするのですが。
それでも、これまで義量といえば大酒を飲みすぎて義持から叱られたというイメージしかなかったのが、その前3回の禁酒令を見ると、どうやら義量が大酒飲みだったというよりは、義持の飲酒に対する抑制が厳しかったのではないか、という側面も見えてきます。
では何故、こんなに禁酒令を発令したのか。
清水先生は、この根本に「徳政」という思想があるとされています。
「徳政」とは、為政者の代替わりや天変地異があった時、為政者が広く善政を敷くことで厄災を取り除くという「仁徳のある政治」をするべきである、という思想です。
仁徳のある政治をするべきであるというのは現代でもそのとおりだと思うのですが、仁徳のある政治をしたから厄災が取り除かれるかと言えば、特に自然災害の場合は必ずしもイコールではありません。
ただ前述の神社からのプロパガンダが広がる余地があったように、当時は仏神事を興行し、寺社勢力を復興することが「徳政」の大きな要因であると信じられていました。
そして義持の禁酒令も、この「徳政」の一つではないか、とされています。言うまでもなく僧侶が酒を飲むことは本来は禁止されているはずで、そこを厳しく取り締まり厳粛に仏神事を行うことが「徳政」の一つである、ということです。
確かに厳粛に仏神事を行うということは、ものすごく正しいんですが……
当然こうした徳政や祈祷で飢饉が収まるわけはなく、人々のフラストレーションは溜まっていきます。
結果、相国寺で行われた施餓鬼供養の最中、突如おこった石合戦で、運悪く(?)石の一つが義持に当たってしまったという事件を紹介されています。偶然か故意かは不明ですが「頭に石を投げつけられたのは鎌倉から江戸までの歴代将軍の中でも義持だけではないか」と書かれています。
確かに…石を投げつけられた人は思い浮かばないです。暗殺された人とか毒を盛られた人とか裸足で退去させられた人なら思い浮かぶんですが。
それも民衆からですからね。故意だったら本当に前代未聞です。
とは言え、義持は、
・京へ集まった人々に施行を行う
・高額な金品を贈答しあう儀礼の禁止
など、ちゃんとしっかりした対策も行っているんですが、焼け石に水だったのか一向に事態が改善せず、義持の「徳政」が評価されなかったというのは、気の毒というより他ないです。
ちなみに、この「徳政」という思想が、本来は上記のように「為政者が仁徳のある政治をする」ことであったのが、「民衆は徳政を受けるべきである」というように次第に読み替えられ、徳政一揆に繋がっていったというのも、大変興味深い価値観の変化だと思います。
以上、ざっくりとですがまとめてみました。
書きながら、当時の人々の価値観は違うとは言え、疫病の真っ只中の今現在、マスク・消毒・ワクチンといった現実的な対策を取りつつも、一方で神社で祈祷が行われたりするのを「そんな意味のないことをして」とは決して捉えないよなあ、とふと思いました。
乖離しているようで繋がっている部分もあるんでしょうね。
何にせよ、本当に疫病が早く取り除かれますように。徳政をお願いします。